第10話 灰巣という名前
翌朝の点呼は、いつもと空気が違った。
教官が壇上に立つと、中庭に集められた子供たちは、自然と背筋を伸ばした。この数週間で、僕らは誰に教えられるでもなく、そういう空気の変化を読み取れるようになっていた。
「本日をもって、基礎課程を終了する」
短い一言で、これまでの日々に区切りがついた。走り込み、体術、魔力操作の確認、二人一組の実技評価。振り返れば、あっという間だった気もするし、村を出てからずっと同じ一日を繰り返していたような気もした。
最初の頃は、朝の鐘の音を聞くたびに体が強張った。今は、鐘が鳴る前に自然と目が覚める。変わったのは体だけではなく、たぶん、もっと奥にある何かなのだろうと思う。それが良いことなのか、悪いことなのか、まだ自分では判断がつかなかった。
「合格者は、明日より次の課程へ移る。ここは灰巣――お前たちが今後、育てられていく場所の名だ」
灰巣。初めて聞く名前だった。何の意味を持つ言葉なのか、なぜそう呼ばれているのか、教官は説明しなかった。それでも、その響きには、これから僕らが何かに変わっていくのだという予感めいたものがあった。
周りを見回すと、同じように名前を初めて聞いた顔と、すでに知っていたらしい平然とした顔が、半々くらいに並んでいた。何を知っているかで、こんなにも顔つきが違うのかと、僕は少し薄ら寒くなった。
「不合格者については、以後、この場に姿を見せることはない」
淡々とした言葉に、周りの空気が張り詰めた。誰も声を上げなかった。今さら聞いても、答えは変わらないと、みんな知っていた。
最初にここへ来た日、荷車の中で聞いた言葉を思い出した。歩けない子は後ろへ、幼すぎる子は運搬に向かない。あのときと同じ響きが、形を変えてまた僕らの前に立っている気がした。
隣に立つリナを見ると、彼女は前を向いたまま、微動だにしなかった。
「合格、してると思う?」
小声で聞くと、リナは肩をすくめた。
「分からない。でも、今更悩んでも結果は変わらない」
そっけない言葉だったけれど、僕はなんだか少し安心した。
結果は、その日の午後に個別で告げられた。僕とリナは、揃って次の課程に進むことになった。アルトも、当然のように名を連ねていた。逆に、朝食の席でよく見かけていた顔が、いくつか消えていた。誰も、それについては話さなかった。
食堂に向かう途中、アルトとすれ違った。彼は足を止め、珍しく僕をまじまじと見た。
「まだいたのか」
「おかげさまで」
「その返し、いい加減聞き飽きた」
そう言いながらも、口調にはわずかに違う響きがあった。呆れているだけではない、何かを認めるような間だった。
「次の課程、お前もついてこられるといいけどな」
それだけ言うと、彼は僕の返事を待たずに歩き去った。皮肉なのか、それとも彼なりの激励なのか、僕にはまだ分からなかった。
「次の課程は、これまでより厳しくなる」
教官は、それだけしか言わなかった。具体的に何をするのか、どんな力を求められるのか、何一つ明かされなかった。分からないことばかりが増えていくのに、逃げ場はどこにもなかった。
教官が去り際、ふと漏らした一言が、僕の耳に残った。「今度は、木剣じゃ済まない」。誰に向けた言葉だったのか、僕に聞かせるつもりだったのかも分からない。それでも、その一言だけで、これまでとは違う何かが始まるのだと、はっきり感じ取れた。
夕方、訓練場の隅で、リナと二人きりになる時間があった。
「これから、しばらくは一緒だね」
「しばらく、じゃない。多分、ずっと」
「ずっと?」
「ここでは、組み替えなんて滅多にない。合わない相手と当たったら、それで終わりってだけ」
事務的な言い方だったけれど、その裏に、投げやりではない何かがある気がした。
「あんたと組まされたのは、運が良かったのか悪かったのか、まだ分からない」
「僕もだよ」
「でも――」
リナはそこで言葉を切って、少しだけ視線を逸らした。
「マティのこと、あんたが凄く気にかけてたの、見てた。ああいうの、ここでは珍しい」
「珍しいって、悪いことなのか」
「分からない。悪いことかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
はっきりしない答えだったけれど、拒絶されているようには感じなかった。
「それに、一人で組まされるよりは、ましだと思ってる。それだけは言っておく」
思いがけない一言に、僕は少し驚いて隣を見た。リナは相変わらず前を向いたままだったけれど、いつもより少し早口だった気がした。認めたくないことを、無理やり口にしたような言い方だった。
「リナは、誰かを庇ったこと、ある?」
聞いてすぐ、失敗したと思った。案の定、リナの表情が少しだけ硬くなった。
「昔のことは、話さない」
「ごめん」
「謝る必要はない。ただ、話さないだけ」
それ以上踏み込む隙はなかった。それでも、拒まれたというより、まだ扉を開ける時期じゃないと言われた気がした。焦る必要はない、と自分に言い聞かせた。
夜、寝台に横になりながら、僕は「灰巣」という言葉を頭の中で繰り返した。この場所の名前を知ったところで、自分たちがこれから何をさせられるのか、依然として何も分からないままだった。
村を出た日からの記憶を、順番にたどってみた。燃える家、床下の暗闇、荷車の揺れ、灰色の壁、名前を知らなかった少女。数えるほどの日数のはずなのに、ずいぶん遠いところまで来てしまった気がした。
父さんと母さんは、今もどこかで生きているだろうか。マティは、あの小さな棟で、今夜も膝を抱えて座っているだろうか。
考えても答えの出ないことばかりが、胸の中に積もっていく。それでも、隣の寝台にリナがいて、翌日にはまた同じ場所で目を覚ますのだと思うと、ほんの少しだけ、明日という日が怖いだけのものではなくなっている気がした。
灰色の壁の外では、季節が変わりかけているらしい。窓の隙間から吹き込む風が、記憶の中の村の秋よりも、少しだけ冷たく感じられた。明日から始まる次の課程が、自分をどう変えていくのか、僕にはまだ知る術がなかった。




