第8話 名前を知る日
朝の点呼で、教官がいつもと違う紙束を手にしていた。
「本日をもって、今後の訓練は固定の二人一組で行う。組み合わせは、これまでの評価に基づき、こちらで決定した」
ざわめきが起きかけて、すぐに静まった。声を上げても、意味がないと誰もが知っていた。
「以後、記録には本名を用いる。番号での呼称は、正式な場では使用しない」
その言葉に、僕は隣に立つ六番――名前を知らないままのあの子を、思わず見た。彼女は表情を変えなかったけれど、拳を握る手に少しだけ力がこもっているのが分かった。
番号でしか呼ばれてこなかった数日間を思い返すと、名前というものが、急に重たいものに感じられた。この場所では、名乗ることにも、覚えられることにも、意味があるのかもしれなかった。
名前が一人ずつ読み上げられていく。聞き覚えのある顔と、初めて聞く名前が、次々に組み合わされていった。アルトの名前も呼ばれ、彼は落ち着いた顔で、指定された相手の隣に並んだ。組まれた相手は、体格のいい年上の少年だった。二人とも表情を変えなかったけれど、互いに一度だけ視線を交わすと、それだけで何かを確認し合ったように見えた。ああいう組み方もあるのか、と僕は少し離れた場所から思った。
「ノエル」
自分の名前を呼ばれて、僕は背筋を伸ばした。
「――リナ」
続けて読み上げられた名前に、僕は思わず隣を見た。彼女は僕を見返さず、まっすぐ前を向いたままだった。それが、彼女の名前だった。数日間、番号でしか呼んでいなかった相手に、ようやく名前がついた。
列の解散後、僕は少し迷ってから声をかけた。
「リナ、って言うんだ」
「別に、隠してたわけじゃない」
「じゃあ、なんで最初に――」
「言う必要がなかっただけ。」
素っ気ない言い方だったけれど、拒絶している響きではなかった。ただ、必要以上のことを話すつもりはない、という線引きのように聞こえた。
「あんたの名前も、ちゃんと聞いたのは今日が初めて」
「そうだね」
「別に、それで何か変わるわけじゃないから」
変わらない、と言いながらも、リナは前よりわずかに長く、僕の顔を見ていた。それだけの変化かもしれなかったけれど、僕には十分だった。
「よろしく、リナ」
「あんたが下手なままだと、こっちが困る。それだけは覚えておいて」
軽口とも忠告ともつかない言葉に、僕は思わず笑いそうになった。ここに来てから、初めてのことだった。笑うことなんて、もうずっとしていない気がしていたのに。
「僕、ノエル。よろしく」
「知ってる。さっき呼ばれてた」
そっけない返事だったけれど、彼女の口の端が、ほんの少しだけ動いた気がした。見間違いかもしれなかった。
組み合わせが決まったあと、午前中はさっそく合同の訓練にあてられた。今日の課題は、片方が目隠しをし、もう片方の声だけを頼りに、障害物を避けて進むというものだった。
「目隠し、どっちがやる」
「僕がやる」
「いいけど、私の声、ちゃんと聞き分けて。周りにも声を出してる組がいるから」
言われた通り目隠しをすると、一瞬で周囲の音が増えたように感じた。あちこちから、別の組の指示が飛び交っている。その中でリナの声だけを拾うのは、思っていたより難しかった。
「右、少し。もっと右」
「こう?」
「そう。そこで止まって、跨いで」
指示は短く、無駄がなかった。何度か声を聞き間違えて障害物にぶつかりそうになったけれど、そのたびにリナの声が、少しだけ苛立った調子で修正を入れてくれた。
「あんた、耳もあんまり良くないんだね」
「返す言葉もない」
「まあ、慣れれば少しはましになる、はず」
課題を終える頃には、僕は汗だくになっていた。目隠しを外すと、リナが小さく息を吐くのが見えた。疲れているというより、なにかを確認し終えたような顔だった。
その日の午後、僕は思い切って教官に尋ねた。
「マティも、この訓練に入るんですか」
「五歳児は対象外だ。別枠で管理される」
「別枠、というのは」
「お前が知る必要はない」
にべもなく切り捨てられて、それ以上は何も聞けなかった。パートナーが決まって、少しだけ足場ができたと思った矢先に、マティとはますます離れていくのだと分かった。喜びと不安が同時に胸の中にあって、うまく整理がつかなかった。
夕食のとき、マティを探して食堂を見回したけれど、今日は姿が見えなかった。別枠、という言葉の意味を、僕はまだ何一つ理解できていなかった。理解できないことが、余計に不安を大きくした。
夕方、訓練場の隅で、リナが壁にもたれて座っていた。
「浮かない顔」
「マティのこと、聞いたら、別枠だって。それしか教えてくれなかった」
「聞いても無駄なことは、聞かないほうがいい」
「そういうものかな」
「そういうもの。ここでは、知らなくていいことを知ろうとすると、痛い目を見る」
実感のこもった言い方だった。彼女自身、何か知ってしまったことがあるのかもしれないと思ったけれど、聞く勇気はなかった。
「これから、よろしく」
もう一度そう言うと、リナは少しだけ間を置いてから答えた。
「まだ、よろしくって言えるほどじゃない。組まされただけ」
突き放すような言葉だったけれど、拒否とは違う響きだった。少なくとも、僕にはそう聞こえた。
「それでも、目隠しのとき、ちゃんと指示してくれた」
「当たり前でしょ。訓練ちゃんとやらなかったら、私が困る」
「うん。でも、ありがとう」
リナは何も返さず、ただ立ち上がって、訓練場の出口の方へ歩き出した。ついてくるかどうかは、こちらに任せるという歩き方だった。僕は少し遅れて、その後を追った。
夜、寝台に横になりながら、僕はその日一日を振り返った。名前を知った。相棒ができた。それでも、マティとは離れたままで、父さんと母さんの行方も、まだ何一つ分かっていない。
隣の寝台の列に、マティの姿はなかった。今日はいつもの場所にいない。それだけで、胸の奥がざわついた。明日、必ず探しに行こうと決めて、僕は天井を見つめた。
手に入れたものと、まだ手に入らないものの重さが、うまく釣り合わないまま、僕は目を閉じた。




