第6話 抜くところで抜く
鐘の音を数えるようになっていた。あれから三日が経っていた。
同じ時間に起き、同じ列に並び、同じ粥を食べる。繰り返しているうちに、体が勝手に動くようになってきた自分に気づいて、少し怖くなった。慣れるということは、ここでの暮らしを受け入れ始めているということでもある気がした。
三日の間、僕は毎朝マティの様子を教官に尋ね続けた。答えはいつも同じで、「把握していない」の一言だった。それでも聞くのをやめなかったのは、聞くことしか、僕にできることがなかったからだ。
その日の朝、食堂に入ると、見覚えのある小さな背中があった。
「マティ?」
振り返った顔は、間違いなくマティだった。頬はこけていたけれど、目に力はあった。右足には添え木が当てられていて、松葉のような杖を借りて立っている。
「あんちゃん!」
駆け寄ろうとして、足をもつれさせたマティを、僕は慌てて支えた。抱き止めた体は、覚えていたよりも軽くなっている気がした。
「走っちゃだめだ。足、まだ治ってないだろ」
「もう平気。ちょっと痛いだけ」
強がっているのは分かったけれど、僕は何も言わずにその頭を撫でた。生きていた。ちゃんと、生きていた。それだけで、胸の中の何かがようやく緩んだ気がした。
「毎日、注射みたいなのされて、痛かった」
「注射?」
「わかんない。でも、もう歩けるって言われた」
マティの言葉から詳しいことは分からなかったけれど、治療棟でどんな扱いを受けていたのか、あまり深く聞きたくなかった。聞いても、良い話ではない気がした。
「一人で、こわくなかった?」
「こわかったよ。ずっと、あんちゃん呼んでた」
その言葉に、僕は何も返せなかった。呼ばれていたことにも、応えられなかったことにも、同じくらい胸が痛んだ。
「これから、あんちゃんと一緒にいられる?」
「……分からない。でも、なるべく」
なるべく、としか言えない自分が情けなかった。ここでは、僕にできる約束なんて、そのくらいしかなかった。
「あんちゃん、父さんと母さん、見つけた?」
「……まだ」
マティは黙って俯いた。五歳の子供にも、聞いてはいけないことがあると分かるくらいには、この数日で何かを察してしまったのかもしれない。僕はそれ以上、何も言えなかった。
朝食のあと、中庭に集められると、教官が新しい鍛錬の内容を告げた。
「本日より、二人一組で組手を行う。相手は指定する」
周りの子供たちが、緊張した面持ちで教官の声に耳を傾けていた。誰と組まされるかで、これからの評価が変わるらしいと、囁く声が聞こえた。
呼ばれた名前の中に、僕の名前と、あの女の子の名前が並んで読み上げられた。名前――正確には、名前の代わりに与えられた短い呼び名だった。彼女は「六番」と呼ばれていた。僕は「十二番」だった。
指定された場所に向かうと、彼女はすでに構えを取っていた。動きに無駄がなく、素人の僕から見ても、様になっていた。
「あんたと組まされるとは思わなかった」
「僕も」
「弱いやつと組んでも、こっちの評価が下がるだけなんだけど」
言葉は刺々しかったけれど、口調そのものは淡々としていて、責めているようには聞こえなかった。ただ困っている、というほうが近い気がした。
「ごめん」
「謝られても困る」
組手が始まると、あっという間に投げ飛ばされた。受け身も取れずに背中を強く打って、しばらく息ができなかった。
少し離れた場所から、あの傷だらけの男の子がこちらを一瞥するのが見えた。何か言うわけでもなく、すぐに自分の組手に戻っていったけれど、値踏みされたような視線だけが残った。
「力を入れすぎ。抜くところで抜かないと、すぐ倒れる」
彼女は手を差し出しかけて、途中で引っ込めた。それでも、言葉だけは続けてくれた。
「重心はもっと低く。腕は最初から力まない」
言われた通りに構え直すと、さっきよりは長く持ちこたえられた。それでも、最後にはまた地面に転がされて、口の中に土の味が広がった。何度目かの受け身で、ようやく背中の打ち方が少しだけましになった。
近くの組では、体格の大きな男の子が、組んだ相手を何度も力任せに投げ飛ばしていた。加減のない様子に、教官が近づいて短く注意した。
「怪我をさせたら、お前の評価も下がる。加減を覚えろ」
叱られているというより、道具の扱い方を注意されているような言い方だった。男の子は不満げな顔をしながらも、それ以上は続けなかった。ここでは、優しさよりも、そういう理屈のほうが誰かを守るのだと知った。
「教えてくれて、ありがとう」
「あんたが下手すぎて、こっちが疲れるだけ」
そっけない言い方だったけれど、突き放されている感じはしなかった。教えなくてもいいはずのことを、わざわざ教えてくれている。それだけは、なんとなく分かった。
休憩の合間、彼女は少し離れた場所からマティのほうを見ていた。
「あの子、あんたの弟?」
「隣の家の子。村で助けた」
「ふうん」
「きみにも、そういう子、いた?」
聞いてから、踏み込みすぎたかもしれないと思った。案の定、彼女の表情が一瞬こわばった。
「……いない。私は一人だった」
短く答えると、彼女はそれ以上何も言わず、また口を閉ざした。何か言いたそうな顔をしていたけれど、結局それ以上は続かなかった。
鍛錬が終わる頃には、体中が悲鳴を上げていた。それでも、マティが同じ建物のどこかにいて、名前も知らないこの子が隣で短く助言をくれる。数日前には考えられなかったことだった。
夜、寝台に横になりながら、僕は今日組手で言われた言葉を頭の中で繰り返した。抜くところで抜く。重心を低く。まだ体が覚えていなくても、言葉だけは覚えていた。
隣の寝台の列には、マティが移されていた。小さい子供用の寝台に、まだ慣れない様子で丸くなっている背中が見えた。声をかけようか迷って、結局やめた。眠っているなら、それでいい。
明日もまた同じ相手と組まされるのかは、分からなかった。それでも、少しだけ、この場所での一日の終わり方が、昨日までとは違って感じられた。父さんと母さんのことは、今日も何一つ分からないままだったけれど。




