↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灰巣の子  作者: 鳴沢京子


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/19

第4話 名前のかわりに



門をくぐると、外の音が急に遠くなった。


風の音も、鳥の声も、村で聞き慣れていたものが何もない。代わりに聞こえてくるのは、石畳を踏む靴音と、遠くで誰かが号令をかける声だけだった。空気まで違う気がした。土のにおいも、煙のにおいもしない。冷たい石のにおいだけがした。


荷車が止まると、兵士が格子を外側から叩いた。


「降りろ。並べ」


僕はまずマティを抱えるようにして荷台から降ろし、それから自分も降りた。足がしびれて、地面に立った瞬間よろけた。隣で降りた女の子が、一瞬だけこちらに手を伸ばしかけて、結局何もせずに引っ込めた。


見上げると、灰色の建物がいくつも並んでいた。窓は少なく、あっても小さい。中庭には僕らと同じような子供たちの列がいくつもできていて、どの列も静かだった。泣き声も、話し声もほとんどない。ここへ来る前からいる子供たちなのか、みんな一様に俯いたまま、順番を待っていた。


列の端のほうに、僕らよりずっと前からここにいるらしい子供たちがいた。服装が違う。灰色の粗末な上着を揃って着ていて、姿勢もどこか硬かった。目が合っても、何も言わず視線を逸らされた。怖がっているというより、関わることそのものを避けているような態度だった。ああなるまでに、どれくらいの時間がかかったのだろう。考えかけて、僕はすぐにその考えを振り払った。


「静かに並べ」


その言葉だけで、周りの空気が変わった気がした。命令に慣れている場所だ、と分かった。


列の先には、机を置いた兵士と、白っぽい服を着た大人が数人いた。ひとりずつ呼ばれて、名前を聞かれ、何かの帳面に書き込まれている。名前のあとに、短い数字が続けて記録されていた。


僕らの番が近づくにつれて、マティが僕の服を強く握った。


「あんちゃん、こわい」


「大丈夫――」


言いかけて、僕はその言葉を飲み込んだ。大丈夫かどうか、僕自身が分かっていなかった。


「怖いのは、僕も同じだよ。でも、離れないで」


それだけ言うのが、精一杯だった。


僕らの前に立ったのは、白っぽい服の女の人だった。目つきは鋭いのに、声は淡々としていた。


「名前」


「ノエルです。この子はマティ」


「年齢は」


「僕は十二です。マティは五つ」


女の人は帳面に何かを書きながら、マティの足に目を留めた。


「その足、怪我か」


「はい。荷車が当たって……歩けなくて」


女の人はしゃがみ込んで、マティの足を軽く持ち上げた。マティが痛みに顔をしかめる。


「治療が必要だな」


女の人はマティの足から手を離すと、僕の手のひらを掴んで小さな石を押し当てた。石は光らなかった。前にも同じことをされた気がする。何を確かめているのか、僕には分からないままだった。


「僕も一緒に――」


「お前は別」


短く遮られた。有無を言わせない言い方だった。


「マティは治療棟へ。お前はこっちの列だ」


背後から兵士が近づいてきて、マティを抱え上げた。マティが僕の名前を呼びながら、腕を伸ばした。


「あんちゃん! あんちゃん!」


「マティ、大丈夫だから――すぐ会える」


根拠のない言葉だった。それでも言わずにいられなかった。マティの声が遠ざかっていくのを、僕はその場に立ち尽くしたまま聞いていた。手を伸ばしても、届く距離ではなかった。


村を出るとき、荷車の中で握り返した小さな手の感触が、まだ掌に残っている気がした。それなのに、もう届かない。守ると言ったわけではなかったけれど、そばにいると、なんとなくそう約束したつもりでいた。


「次」


女の人の声で、僕は前へ押し出された。振り返っても、もうマティの姿は見えなかった。


隣にいた女の子も、名前を聞かれていた。


「名前」


女の子は一瞬迷うように黙った。それから、短く答えた。


「……」


聞き取れないくらい小さな声だった。僕には分からなかった。女の人は構わず帳面に何か書き込み、次の子を呼んだ。


名乗ることを、あの子はためらっていたように見えた。理由は分からない。もしかしたら、名前を教えることさえ、ここでは危険だと感じているのかもしれない。そう思ってから、僕は自分の考えすぎかもしれないと思い直した。


処理を終えた子供たちは、また別の列に並ばされ、大きな建物の中へと連れて行かれた。僕はその流れの中で、さっきの女の子を探した。少し離れた場所にいるのが見えたけれど、声をかけられる距離ではなかった。


建物の中は薄暗くて、廊下の両側にいくつもの扉が並んでいた。どこかから、規則正しい足音と、短い号令のような声が響いてくる。何をしている音なのか、僕には分からなかった。


廊下を進む途中、開いたままの扉の向こうに、中庭とは別の広場が見えた。木剣を構えた子供たちが並んで、大人の号令に合わせて同じ動きを繰り返している。中でも一人、動きの鋭さが明らかに違う男の子がいた。年は僕とそう変わらないはずなのに、隙のない太刀筋だった。すれ違うほんの一瞬しか見えなかったけれど、目に焼きついた。


ここは、ただ子供を保護するための場所じゃない。そのことだけは、はっきりと分かった。何のためにこんな訓練をしているのか、僕にはまだ見当もつかなかったけれど。


案内された部屋は、二段の寝台がいくつも並ぶ広い部屋だった。すでに数人の子供が壁際に座っていて、こちらを一瞥しただけで、また俯いた。誰も自分から話しかけてこない。僕もかける言葉が見つからなかった。


割り当てられた寝台に腰を下ろすと、急に体の力が抜けた。縄はいつの間にか外されていたけれど、手首にはまだ痕が残っていた。マティは今頃、ちゃんと手当てを受けているだろうか。あの女の子は、どの部屋に連れて行かれたのだろう。考えても、答えは出なかった。


窓の外はもう暗くなり始めていた。外の音はほとんど聞こえない。時々、遠くで扉が開閉する音と、誰かの足音が響くだけだった。この建物のどこかに、マティがいる。あの女の子もいる。同じ屋根の下にいるはずなのに、ひどく遠く感じられた。


分かっているのは、マティがもうそばにいないということ、名前を知らないあの子もどこかへ連れて行かれたということ、そして自分がこれから、この灰色の建物の中で暮らすことになるらしいということだけだった。


僕は縛られていた手を握りしめた。誰も見ていない場所で、少しだけ震えを抑えたかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。