第3話 灰色の壁
荷車の揺れは、思っていたよりずっと長く続いた。
日が傾いても、荷車は止まらなかった。木の格子で囲われた荷台には、僕らを含めて十人近くの子供が押し込まれていて、身動きするたびに誰かの肘や膝がぶつかった。縄で縛られた手首は、擦れて皮が剥けかけていた。座っているだけなのに、脚の感覚が少しずつ鈍くなっていくのが分かった。
窓のない荷台からは、村の方角も、太陽の位置くらいでしか分からなかった。どれくらい進んだのか、あとどれくらいかかるのか、誰も教えてくれなかった。
「あんちゃん、のど、かわいた」
マティが僕の袖を引いた。額に触れると、思ったより熱かった。足の傷のせいか、それとも慣れない移動のせいか、僕には判断がつかなかった。傷口に布を巻き直してやりたかったけれど、替えの布も水もなかった。
「少し待って。水、もらえるか聞いてみる」
格子の外を歩く兵士に声をかけるのは怖かった。それでも黙っていたら、マティの熱はきっと下がらない。
「すみません、水を――」
「休憩のときにまとめて配る」
短く返されて、それで終わりだった。感情のない声だった。怒鳴られたわけでもないのに、僕は自分の声がまだ震えていることに気づいた。何かを頼んでも、聞き入れられるとは限らない。分かってはいたけれど、実際に断られると、体の力が余計に抜けた。
隣に座っていた女の子――名前を知らないままのあの子が、こちらを見ずに言った。
「配られても、先に取っておかないと、他の子に飲まれる」
「え」
「水も、パンも。ここじゃ誰も待ってくれない」
言われてみれば、荷台の奥では体の大きな子が、小さい子の分まで手を伸ばしていた。誰も注意しない。兵士も見ていない。見ていても、止める気がないようだった。
「教えてくれて……ありがとう」
女の子は答えなかった。ただ、僕とマティを一瞬見て、また視線を格子の外に戻した。親切のつもりで言ったわけではない、という顔だった。
「あんたの村も、燃やされたのか」
僕が聞くと、女の子は少し間を置いてから答えた。
「三日前」
「三日……」
僕らの村より先に、同じことが起きていた場所がある。そのことに、僕はうまく言葉を返せなかった。
「聞くだけ無駄。同じことがあちこちで起きてる」
女の子はそれ以上何も言わず、格子の外に目を戻した。踏み込んだことを聞いたと分かっていたけれど、謝る言葉も見つからなかった。
途中、別の荷車と合流した。同じような格子の荷台に、また別の子供たちが押し込まれている。誰の村から来たのかも分からない顔ばかりだった。荷車が増えるごとに、僕らはますます一列の荷物のように扱われている気がした。
日が完全に落ちる頃、荷車が止まった。休憩、と兵士が言った。水と、硬いパンが一切れずつ配られた。僕はマティの分を先に確保して、少しずつ口に運ばせた。パンは石みたいに硬くて、マティは半分も食べられなかった。
「あんちゃんも、食べて」
「僕はいいよ」
「だめ。半分こ」
半分にちぎられたパンを押しつけられて、僕は何も言えなくなった。五歳の子供に気を遣われている。情けないのか、ありがたいのか、自分でも分からなかった。それでも、断ればマティが泣きそうな顔をしていたので、僕は受け取った。
受け取った半分は、思ったより軽かった。それでも、噛むと口の中に僅かな塩気が広がって、少しだけ現実に引き戻される感じがした。
休憩の間、少し離れた場所で騒ぎが起きた。年配の男の人が縄を振りほどこうとして、兵士に取り押さえられていた。「妻を、妻を返せ」というくぐもった声が聞こえた気がしたけれど、確かではない。声は途中で聞こえなくなり、地面に押さえつけられた後、その人はもう動かなかった。周りの大人たちは誰も声を上げなかった。上げられなかったのだと思う。
僕はそれ以上見ていられなくて、目をそらした。マティが不安そうに僕の腕にしがみついてきたので、その頭を軽く撫でた。何もできない自分に、撫でることしかできなかった。
「見ない方がいい」
女の子が言った。今度はこちらを見ていた。
「見ても、どうにもできない」
「分かってる」
分かっていても、目をそらすことにどこか罪悪感があった。助けを求めて兵士に声をかけるだけ無駄だと、もう半分は諦めている自分がいた。その諦めが、少し前の自分とは違う気がして、僕は落ち着かなかった。まだ何も変わっていないはずなのに、変わっていく足音だけが、先に聞こえてくるような感覚だった。
父さんと母さんのことを考えようとしても、頭の中がうまく動かなかった。無事でいてほしいと願う気持ちと、もう考えても仕方がないという気持ちが、同時に胸の中にあった。どちらも本当で、どちらも嫌だった。
荷車は夜通し進んだ。眠っているのか起きているのか分からない時間が続いて、隣でマティの寝息が規則正しくなった頃、気づけば東の空がうっすら白くなっていた。冷たい風が格子の隙間から吹き込んで、僕は縛られたままの腕でマティの体を少しでも覆おうとした。
「見て」
隣で、女の子が小さく声を上げた。珍しく、その声には何かが滲んでいた。驚きなのか、警戒なのか、僕にはまだ聞き分けられなかった。
格子の隙間から見えたのは、遠くに聳える灰色の城壁だった。村の柵とはまるで違う、高くて分厚い壁。その向こうに、いくつもの塔のようなものが並んでいる。周りには他の建物も、村らしきものも見当たらなかった。
「あれが……」
言いかけて、続きが出てこなかった。あそこに何があるのか、僕は知らない。連れて行かれた先で何をされるのかも、知らない。
分かっているのは、荷車がその壁に向かって、迷いなく進んでいるということだけだった。
近づくにつれて、壁の大きさがはっきりしてきた。見上げるほどの高さの門が、ゆっくりと左右に開いていくのが見えた。門の内側から、外套を着た人影がいくつも現れて、荷車の列を数えるように眺めていた。誰も歓迎するような顔はしていなかった。
マティが僕の手を握る力が強くなった。目を覚ましたらしい。
「あんちゃん、あそこ、なに」
「……分からない」
分からないとしか言えなかった。嘘をつく余裕もなかった。
僕は握り返しながら、遠ざかっていく朝の光の中で、あの灰色の壁と、開いていく門だけが、どんどん近づいてくるのを見ていた。




