第16話 的に向かって
休息日が明けると、訓練場の中央に、見慣れないものが置かれていた。
藁と布で作られた、人の形をした的だった。等身大で、胸の辺りに、赤い布で印がつけられている。
並んだ数を数えると、ざっと二十体はあった。誰かが、僕らの人数分だけ、これを用意したのだと思うと、それだけで胃の底が重くなった。
「本日から、対象を想定した実技に入る」
教官の声に、周囲の空気が一段と張り詰めた。
「対象に気づかれる前に、致命部位を一撃で仕留める。それが理想の形だ」
理想、という言葉が、妙に引っかかった。まるで、それが当然の目標であるかのような言い方だった。
「気づかれてからでは、成功率が落ちる。抵抗されれば、こちらが傷つく可能性も上がる。理由はそれだけだ」
情に訴える言葉は、一言もなかった。すべてが、効率と成功率の話として語られていた。その乾いた言い方のほうが、かえって恐ろしく感じられた。
「今日は、この的を使って、間合いと踏み込みの感覚を覚えろ」
一人ずつ、的の前に立たされる。僕の番が来ると、木刃を握る手が、これまでのどの訓練よりも重く感じられた。
「踏み込み、浅い」
教官の指摘に、やり直す。何度目かの踏み込みで、ようやく赤い印の中心に刃先が届いた。
「今の感覚を覚えておけ」
覚えろと言われても、覚えたくない感覚だった。それでも、体は素直に、その動きを記憶していくようだった。
刃先が布を貫いた瞬間の抵抗感が、指先から腕へと伝わってくる。柔らかいものを突き破る、あの独特の感触を、僕はきっと、この先も忘れられない気がした。
隣の的に向かっていたダンが、僕と目が合った。彼の表情には、いつもの軽さがなかった。
「これ、藁だから、まだいいけどさ」
小声でつぶやくダンに、僕は何も返せなかった。次に何が来るのか、二人とも、なんとなく察していた。
「本番、想像したくないな」
「……うん」
短いやり取りだったけれど、それだけで十分に伝わるものがあった。
休憩の合間、リナの動きを見ていると、彼女は一度も踏み込みをやり直されていなかった。的の急所を、迷いなく正確に突いていた。
少し離れた場所では、アルトも黙々と的に向かっていた。踏み込みも、刃筋も、危なげなく的確だった。それでも、以前のような余裕は感じられなかった。彼なりに、何かをこらえているような背中だった。
「リナ、うまいな」
「これは、単に距離の計算だから。むしろ簡単」
事もなげに言う彼女に、僕は少し複雑な気持ちになった。得意なことが増えるたびに、彼女がこの場所に順応していっているようで、それが良いことなのか悪いことなのか、判断がつかなかった。
「あんたは、まだ迷ってるみたいだけど」
「迷ってる、って顔に出てるか」
「出てる。動きが、まだ的を人だと思ってない」
指摘されて、僕はどきりとした。心のどこかで、これはただの藁でできた物だと、自分に言い聞かせていた。そう思わなければ、刃を振るえなかった。
「人だと思わないと、駄目なのか」
「駄目、っていうか……本番で、急に人だって実感したら、その瞬間、動きが止まる。止まったら、殺られるのはこっち」
淡々とした言い方だったけれど、その内容は、これまでのどんな忠告よりも重く響いた。
エマが、少し離れた場所から声をかけてきた。
「暗い顔してるやつ、ここに二人もいるじゃん」
「エマは平気なのか、これ」
「平気なわけないでしょ。ただ、平気なふりしてるだけ」
いつもの軽口とは違う、少しだけ本音の滲んだ声だった。
「ふりでも、しないよりましだと思ってる」
その言葉に、ダンが小さく頷いた。
「俺は、正直、無理かもしれない」
ぽつりと漏らされた一言に、誰も、すぐには言葉を返せなかった。
「本物の人相手に、これができる自信、ない」
「……できなかったら、どうなるんだ」
僕が聞くと、ダンは力なく笑った。
「分からない。考えたくもない」
その場にいた誰も、その先を口にはしなかった。分かっていて、言わないだけだった。
「でも、俺、弟のために、ここまで来た。だから、簡単に脱落するわけにはいかない」
ダンの声は、いつもの軽さを失っていた。誰かに言い聞かせるような、自分自身を奮い立たせるような言い方だった。
「弟に、また会うためだろ」
「そう。それだけが、理由」
短いやり取りだったけれど、その「理由」という言葉が、僕にもよく分かる気がした。マティのために、僕もここに立っている。理由の形は違っても、根っこにあるものは、きっと同じだった。
午後の実習が終わる頃には、腕がまともに上がらないほど疲れていた。それでも、疲労よりも重かったのは、今日一日で聞いた言葉の数々だった。
教官が最後に、淡々とした声で締めくくった。
「明日も、同じ実習を行う。数をこなせば、迷いは減る」
数をこなせば迷いは減る、という言葉が、慰めなのか、警告なのか、僕には判断がつかなかった。慣れていくということが、必ずしも良いことだとは、思えなかった。
夕方、寝台に戻る道すがら、リナが静かに言った。
「ダンの言葉、気にしてる?」
「気にしてないふりも、できない」
「そう」
それだけしか言わなかったけれど、彼女なりに、何かを考えているようだった。
夜、寝台に横になりながら、僕は藁の的に刃を突き立てた感覚を、まだ手のひらに感じていた。あれが人だったら。想像しかけて、僕はすぐにその先を打ち消した。
ダンが言った「弟のため」という言葉が、頭から離れなかった。誰かのために強くなろうとすることが、こんなにも重い意味を持つ場所があるのだと、僕はここに来て初めて知った。
マティは、こんな訓練を、いつか受けることになるのだろうか。父さんと母さんは、僕がこんなことを覚えさせられていると知ったら、何と言うだろう。答えの出ない問いを抱えたまま、僕は目を閉じた。




