第13話 見えない刃
翌朝、教官はいつもと違う棟へ僕らを連れて行った。
小さな瓶や乾いた葉、粉末の入った小袋が、棚一面に並んでいた。刃物のときとはまた違う緊張感が、部屋の空気にこもっていた。
甘い香りのするものもあれば、鼻を刺すような刺激臭を放つものもあった。どれが人を傷つける側で、どれがそうでないのか、見た目だけでは判断できなかった。
「今日からは、毒物についての基礎を教える」
新しい教官の声は、低く、静かだった。淡々としているのは他の教官と同じだったが、どこか、この分野そのものに愛着があるような響きがあった。
「まずは、見分け方から。効果の強さより、まずは正体を知ることが先だ」
机の上に並べられたのは、見た目のよく似た葉や根だった。似ているのに、片方は薬になり、片方は毒になるのだという。
「触るな。匂いだけで、違いを覚えろ」
言われた通り、恐る恐る顔を近づける。ほとんど違いが分からなかった。隣を見ると、リナはすでに、迷いのない仕草でいくつかを嗅ぎ分けていた。
手を伸ばしかけては引っ込め、また伸ばす。触れてもいないのに、指先が強張った。
「早いな」
小声で言うと、リナは肩をすくめた。
「勘、みたいなもの」
「勘だけで、そんなに分かるのか」
「分かるっていうか……なんとなく、嫌な匂いがする方を避けてるだけ」
謙遜しているようには聞こえなかった。本当に、そういう感覚が備わっているらしかった。僕には、どれも同じような青臭さにしか感じられなかった。
刃物には、まだ分かりやすい怖さがあった。握れば重さがあり、振れば届く範囲が見える。けれど毒は違う。見た目も匂いも紛らわしく、気づかれないまま効いていく。そのことのほうが、僕にはずっと不気味に感じられた。
刃物なら、握った瞬間に相手も気づく。逃げる隙も、抵抗する隙もある。けれど毒は、気づかれた時にはもう遅い。そういう静かな暴力があるのだと、僕はこの日初めて実感した。
「毒は、力のない者でも、強い者を殺せる唯一の手段だ」
教官が、感情のない声で言った。
「刃を振るう力がなくても、正しい知識さえあれば、成果は出せる」
その言葉に、僕は返す言葉が見つからなかった。効率的な言い方だとは思ったけれど、それが「殺す」という行為の話だと思うと、素直には頷けなかった。
体格でも、腕力でも、僕はきっとアルトには一生届かない。それでも、この場所ではそれが唯一の道ではないのかもしれない。そう思うと、少しだけ気が軽くなる自分がいて、同時に、そんな風に考えてしまったことが怖くもあった。
「先生、これ、飲んだらどうなるんですか」
近くにいた子供が、興味本位のような口調で尋ねた。教官はその子供を一瞥し、瓶の中身を指差した。
「致死量を口にすれば、半刻もかからず死ぬ。今、お前が触れているのは、致死量の百分の一以下に薄めた見本だ」
淡々とした答えに、部屋の空気が一気に冷えた気がした。誰も、それ以上は質問しなかった。
実技では、毒の見分け方に加えて、簡単な解毒処置の手順も教えられた。誤って触れた場合、どう対処するか。効果が出るまでの時間の目安。すべてが、実際に使う前提で語られていた。
「アルトは、こういうの苦手そうだね」
休憩中、リナがふとつぶやいた。見ると、アルトが眉をひそめながら、葉の匂いを嗅ぎ分けようとしていた。いつもの自信に満ちた顔ではなく、明らかに苦戦している様子だった。
「アルトにも、苦手なことあるんだな」
「当たり前でしょ。何でもできる人間なんていない」
言われてみればそうだった。刃物や体術では圧倒的な彼が、こんな些細なことに手こずっている姿は、少しだけ意外で、少しだけ安心する部分もあった。
しばらくして、アルトが匂いを嗅ぎ分けるのに失敗し、教官から短く指摘を受けているのが見えた。彼は表情を変えなかったけれど、拳を握る手に力がこもっているのが分かった。負けず嫌いなのだろう。刃物のときに見せた張り詰めた顔と、また少し違う種類の悔しさが滲んでいた。
午後の実習中、一人の子供が誤って毒の粉末を吸い込みかけ、周囲が一瞬騒然となった。すぐに教官が駆け寄り、手際よく処置を施した。子供は青ざめた顔で咳き込んでいたが、命に別状はないようだった。
処置の手際は、驚くほど早かった。まるで、こういう事故が日常的に起こることを前提に、動きが組み立てられているようだった。それがかえって、この場所の恐ろしさを物語っているように感じられた。
「次から、もっと慎重にやれ」
叱責というより、確認の言葉だった。その子供は、震える手で、また作業に戻っていった。ここでは、怯えている時間さえ、与えられないらしかった。
夕方、鍛錬を終えて寝台に戻る途中、僕はリナに聞いた。
「毒に詳しいの、前から?」
「……前から、って言うほどでもない」
それ以上は、続かなかった。踏み込みすぎたと分かっていたので、僕もそれ以上は聞かなかった。
「あんたは、刃物より毒のほうが嫌そうだね」
不意にリナが言った。
「分かる?」
「顔に出てる。刃物のときは怖がってるだけだったけど、今日は、なんていうか……気持ち悪そうにしてた」
図星だった。刃物には、まだどこか、正面から向き合う分かりやすさがあった。毒には、それがなかった。
夜、寝台に横になりながら、僕は今日習ったことを思い返した。刃物より恐ろしいと感じた毒のことを、リナはどこかで、僕よりずっと早く知っていたのかもしれない。その理由を、いつか聞ける日が来るのだろうか。
マティのことも、ふと頭をよぎった。あの子がこんな知識を教えられる日が来るとしたら、それはきっと、僕にとってはひどく耐えがたいことだろう。今はまだ、そうならないでほしいと願うことしかできなかった。
父さんと母さんは、僕がこんな知識を身につけていることを知ったら、どんな顔をするだろう。答えの出ないことばかりが、頭の中を巡っていた。




