第12話 気配を殺す
翌日の課程は、刃物の型ではなく、尾行だった。
案内されたのは、灰巣の敷地の外れにある一角だった。石造りの狭い通路が入り組み、まるで小さな街の裏路地を再現したような場所だった。
実際に人が住んでいた形跡はなく、窓のない壁と、行き止まりの角ばかりが並んでいた。何のために、こんな場所をわざわざ作ったのだろう。考えかけて、答えを知りたくない気もした。
「対象者を、気づかれずに追え。見失うな。近づきすぎるな」
教官の説明は、それだけだった。対象役は、教官助手らしい年上の少年少女が務めるらしい。
「距離を詰めすぎれば気配で気づかれる。離れすぎれば見失う。ちょうどいい距離を、自分の体で覚えろ」
言葉だけ聞けば単純そうだったけれど、実際に距離感を掴むのは、想像していたよりずっと難しそうだった。
リナと二人で組むよう指示されたが、今日は交代で片方が対象を追い、もう片方がそれを外から観察する形式だった。
「先にやる?」
リナに聞かれて、僕は頷いた。緊張で、声がうまく出そうになかった。
対象役の少年が路地の奥へ歩き出すのを見て、僕は距離を置いて後を追った。足音を殺そうとするあまり、逆に不自然な歩き方になっている自分に気づいた。
「そんな歩き方じゃ、すぐバレる」
近くから聞こえたリナの声に、僕は驚いて振り返った。彼女はいつの間にか、僕のすぐ後ろに立っていた。
「なんで、そんな近くに」
「あんたが自分の足音ばかり気にしてる隙に、近づいただけ」
言われて、初めて気づいた。周囲を警戒するべき立場のはずなのに、僕は自分のことしか見えていなかった。
「歩くときは、足音より先に、影と、地面の状態を見て。石畳と土の道じゃ、立てる音が違う」
「そんなこと、考えたこともなかった」
「これから考えるんでしょ、いやでも」
そっけない言い方だったけれど、教えてくれる時点で、突き放されているわけではないのだと分かってきていた。
言われた通り、地面と自分の足の運び方に意識を向けると、少しずつ足音が小さくなっていく気がした。それでも、対象役との距離が縮まると、途端に気配が漏れるのか、何度も振り向かれた。
「見つかった。もう一度」
対象役の少年は、感情のこもらない声で告げると、また元の位置に戻っていった。同じ課題が、何度も繰り返された。
五回目か六回目か、数えるのをやめた頃、少し離れた路地で、別の組の子供が教官に呼び止められる声が聞こえた。何度やっても対象に気づかれ続けていたらしいその子は、静かに列から外された。
「基礎課程には、戻れない。次の評価まで待機だ」
短い言葉だけで、それ以上の説明はなかった。待機、という言葉の響きに、僕は思わず身構えた。
不思議なことに、対象役が立ち止まっている間だけは、なぜか見つからなかった。動いている間はすぐに気づかれるのに、じっとしている間は、視線が素通りしていく。何度目かの失敗のあと、そのことに気づいた。
「あんた、止まってるときだけ、変に見つかりにくいね」
リナが、少し不思議そうな顔で言った。
「そうなのか?」
「うん。前の試験のときも思ったけど、動いてる間はぼろぼろなのに、止まった瞬間だけ、急に消える」
「消えるって、大袈裟だろ」
「大袈裟じゃない。今、二回とも、対象がこっち見た瞬間にあんたが止まって、そのまま素通りされてた」
自分では、そんなつもりはなかった。ただ、見つかりそうになるたびに、反射的に体が固まっていただけだった。それが何かの役に立っているのだとしても、自分の意思で使っているという実感はまったくなかった。
村の床下に隠れていたときのことが、また頭をよぎった。あのときも、恐ろしくて動けなかっただけだ。それが今、こんな場所で役に立つとは、あのときの僕は思いもしなかった。
午後になると、対象役が交代し、今度は僕が観察する側に回った。リナの動きは、最初から違っていた。物陰から物陰への移動が滑らかで、無駄な動きがほとんどない。何度か見失いかけたけれど、そのたびに彼女は、まるで最初からそこにいたかのように、次の物陰に現れた。
「リナ、動きながら隠れるの、うまいな」
「これくらい、できないと困る」
「困るって?」
「……なんでもない」
一瞬だけ、彼女の表情が硬くなった気がした。理由を聞く前に、話は次の課題へと移っていった。
観察係の合間、僕は彼女の動きを、何度も目で追った。物陰から物陰へ移るとき、彼女は必ず一度、周囲を確認してから動く。無駄がないというより、慎重すぎるくらいだった。誰かに教わったのか、それとも、そうしないと生きてこられなかったのか。どちらであっても、今の僕には聞けなかった。
夕方、鍛錬が終わったあと、教官の一人がこちらを一瞥して、何かを手元の紙に書き込んでいるのが見えた。僕とリナの評価なのか、それとも別の何かなのか、聞くことはできなかった。
書き込まれた内容を、僕らが目にすることはない。ただ、その紙一枚が、これからの扱いを左右するらしいことだけは、なんとなく察しがついていた。
寝台に戻る途中、僕はふと、マティのことを考えた。あの子は今、灰巣のどこかで、また膝を抱えて座っているのだろうか。父さんと母さんは、僕がこんなことを覚えさせられているなんて、想像もしていないだろう。
夜、天井を見上げながら、僕は今日リナに言われた言葉を思い出していた。止まった瞬間だけ、急に消える。自分でも分からない自分の一部が、少しずつ、他人の目を通して形になっていく気がした。それが嬉しいのか、恐ろしいのか、僕にはまだ分からなかった。
隣の寝台からは、リナの規則正しい寝息が聞こえていた。今日一日で聞いた「困る」という言葉の理由を、いつか聞けるときが来るのだろうか。今はまだ、その扉に手をかけることさえできなかった。
昼間、待機を命じられた子供の顔を思い出した。明日、あの子はまたここに戻ってくるのだろうか。答えの出ない問いを抱えたまま、僕は目を閉じた。




