5
翌朝
朝の光が、静かに部屋を照らしていた。
窓から差し込む柔らかな陽射しは穏やかだったが、シンとレンの表情に安堵はない。
二人は結局、一睡もできなかった。
ベッドには近づかず、部屋の隅で背中を預け合ったまま夜を明かしていた。
昨夜、目にしたもの。
武装した男たちを前にしても揺らがなかった、あの青年の姿。
怒りも、興奮も、誇示もない。
ただ当然のように、圧倒していた。
その静けさこそが、何より恐ろしかった。
「……」
「……」
言葉は少ない。
けれど、互いが何を考えているかは分かる。
逃げる。
その選択肢は、まだ捨てていない。
だが、無計画に飛び出せば終わる。
相手のことを知らなすぎる。
ガサリ。
扉の向こうで、小さな物音がした。
二人の身体が強張る。
昨日までの敵意とは違う。
獣が、自分よりはるかに大きな存在を前にした時の、本能的な緊張だった。
ガチャリ。
静かに扉が開く。
「おはよー。昨日のスープ、冷めちゃったから、新しく作り直したよぉ」
入ってきたのは、やはりあの青年だった。
ぶかぶかのパーカー。
眠たげな垂れ目。
手には大きなお盆。
湯気を立てるスープと、焼き立てらしいパンが並んでいる。
昨夜の出来事が嘘だったかのように、いつも通りの空気をまとっていた。
「……」
シンもレンも動かない。
視線だけが、青年の手元を追う。
一挙手一投足を見逃さない。
青年は足を止めた。
少しだけ目を細める。
昨日とは違う。
向けられている感情が、明らかに変わっていた。
反発ではない。
拒絶でもない。
もっと切実で、もっと深いもの。
――恐怖。
靴は履かれたまま。
紐は固く結び直されている。
いつでも逃げ出せるように。
そして、夜のわずかな気配。
青年は小さく息を吐いた。
(……見られちゃったかぁ)
昨夜のことを悟る。
けれど、責めるつもりはなかった。
むしろ、自分の配慮が足りなかったのだと思った。
青年はそれ以上近づかず、ゆっくりとその場に膝をつく。
お盆を床へ置く。
それから、昨日と同じように両手を上げた。
「……夜、うるさくしてごめんねぇ」
穏やかな声だった。
「怖がらせちゃったよね」
シンとレンは答えない。
視線だけが、青年から離れない。
「昨日来た人たちは、君たちを探してたわけじゃないんだ」
青年は静かに続ける。
「ただ、ここに勝手に入ってきただけ。だから、お帰り願ったの」
少し困ったように笑う。
「僕、君たちに同じことをするつもりはないから、安心してほしいなぁ」
その言葉を、二人はすぐには受け取れない。
理解できないからだ。
圧倒的な力を持ちながら、何も要求しない。
怯えられても怒らない。
逃げてもいいと言う。
そんな大人を、二人は知らなかった。
世界はずっと敵だった。
優しさは取引であり、善意には代償がある。
それが当たり前だった。
だからこそ、目の前の青年の存在は、何より不気味だった。
「……」
沈黙が続く。
青年は急かさない。
ただ、湯気の立つスープへ視線を向ける。
「パン、今朝焼いたんだぁ」
柔らかく微笑む。
「冷める前の方がおいしいから、よかったら食べてね」
そう言って、ゆっくり立ち上がる。
「それじゃ、僕は仕事してるから」
扉の前で振り返る。
「何かあったら、呼んでねぇ」
静かに部屋を出ていく。
扉が閉まる。
今回も、鍵の音はしなかった。
しばらくして。
レンが、小さく息を吐いた。
「……気づいてたな」
「ああ」
シンも頷く。
「俺たちが夜に出歩いたことも、見てたことも、全部分かってる」
「なのに、何も言わなかった」
「……分からない」
それが、二人の率直な結論だった。
理解できない。
けれど、一つだけ確かなことがある。
「毒なんて、入ってない」
レンがスープを見る。
「ああ」
シンも静かに答える。
「必要ないからな」
昨夜、嫌というほど思い知らされた。
その気になれば、自分たちなど一瞬でどうにでもできる。
回りくどい手段を取る理由がない。
二人は顔を見合わせる。
長年の習慣で、言葉はいらなかった。
生きるために、食べる。
それだけだ。レンがパンを手に取り、迷いなく半分に割る。
片方をシンへ放る。
シンはスープの器を持ち上げ、立ち上る湯気を見つめた。
「……食うぞ」
「ああ」
それだけだった。
生きるために食べる。
今までも、これからも、それ以上の意味はない。
感謝の言葉を口にする習慣も、祈る相手も持たない。
ただ、生き延びるために腹を満たす。
それが、二人にとっての食事だった。
シンとレンは静かにスープへ口をつける。
温かさが、冷え切っていた身体の奥へゆっくりと染み渡っていった。




