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真夜中。
昼間の柔らかな陽射しは消え、部屋は深い闇に包まれていた。
シンとレンは、静かに立ち上がる。
数時間の休息だけで、レンの呼吸はすっかり落ち着いていた。シンの身体にも、最低限動けるだけの力が戻っている。
スラムで生きる二人にとって、闇は恐れるものではない。
むしろ、唯一平等にすべてを覆い隠してくれる味方だった。
「……行くぞ」
「ああ」
短い言葉を交わし、二人は扉へ向かう。
足音ひとつ立てず、気配を殺しながら進む。
シンがドアノブへ手を伸ばし、レンが周囲の物音へ神経を研ぎ澄ませる。
カチリ。
小さな音とともに、扉はわずかに開いた。
鍵はかかっていない。
あの青年の言葉は、本当だった。
(……甘いな)
シンは目を細める。
レンも無言のまま頷いた。
二人は闇へ溶け込むように、静かに廊下へ出る。
建物の中は、驚くほど静かだった。
いくつかの部屋が並び、暖かな灯りだけが薄暗い廊下を照らしている。
見張りの気配はない。
それが逆に、不気味だった。
「……慎重にな」
「ああ」
壁際を進みながら、出口を探す。
その時だった。
――ドンッ!!
重い衝撃音が、建物の奥から響いた。
まるで誰かが壁へ叩きつけられたような音。
二人の身体が硬直する。
言葉を交わす必要はない。
すぐ近くの物陰へ身を潜め、音のした方へ視線を向ける。
少しだけ開いた扉の向こう。
そこには、数人の男たちが倒れていた。
大柄な体格。
統一された装備。
スラムでも滅多に見ない、明らかに訓練を積んだ者たちだった。
武器を握ったまま、苦悶の声を漏らしている。
そして、その中心に立っていたのは――。
「あ……」
レンが小さく息を呑む。
そこにいたのは、あの青年だった。
昼間と同じ、眠たげな顔。
フードは外れているが、その雰囲気は何も変わらない。
「……だからさぁ」
青年が、困ったように頭を掻く。
「夜中にドカドカ入ってこられたら、あの子たちが起きちゃうでしょぉ?」
声は穏やかだった。
昼間と何一つ変わらない。
けれど、その場に立つ男だけが、異質だった。
空気そのものが違う。
静かな拒絶。
決して怒鳴りもしない。
威圧もしない。
それなのに、誰一人として逆らえる気配がなかった。
「ば、化け物……!」
倒れた男の一人が震える声を上げる。
残された力を振り絞り、ナイフを突き出した。
鋭く、迷いのない一撃。
素人の二人が見ても分かる。
危険な動きだった。
だが――。
青年は動かなかった。
正確には、動く必要がなかった。
パシッ。
飛んできた虫でも払うような気軽さで、その手首を掴む。
「あはは。危ないなぁ」
次の瞬間。
ゴキリ。
鈍い音が響いた。
男の顔が苦痛に歪む。
悲鳴を上げる暇もない。
青年は、その巨体を軽々と持ち上げる。
そして――。
ドンッ!!
コンクリートの壁へ叩きつけた。
男はそのまま動かなくなる。
静寂だけが残った。
あまりにも、一瞬だった。
数人の武装した男たちを相手にしながら、青年は息ひとつ乱していない。
武器すら使っていない。
ただ、当たり前のように片付けただけだった。
「よし、おしまい」
青年は服についた埃を払う。
先ほどまでの冷たい空気も、いつの間にか消えていた。
「せっかく作ったスープ、冷めちゃったかなぁ」
困ったように笑う。
「あとで温め直さなきゃ」
そのまま、何事もなかったかのように歩き出す。
物陰に隠れていたシンとレンは、息をすることさえ忘れていた。
互いの腕を強く掴む。
指先が冷たくなっている。
(……何なんだ、あいつ)
シンの思考が止まる。
優しい大人。
油断させて利用する人間。
そんな理解の枠組みが、音を立てて崩れていく。
(違う)
レンも同じ結論へ辿り着いていた。
(俺たちとは、生きてる場所が違う)
あの路地裏で、自分たちは必死に拒絶した。
手を払い、罵声を浴びせた。
けれど。
もし、あの時。
青年が本気で怒っていたなら。
今ここに、自分たちはいなかった。
圧倒的な力。
それを振りかざすこともなく、ただ穏やかに接してくる不気味さ。
理解できない。
理解できないからこそ、恐ろしい。
青年が廊下へ出てくる気配を感じる。
二人は即座に身を翻し、自分たちの部屋へ戻った。
音を立てず扉を閉める。
そして、部屋の隅へ腰を下ろした。
逃げる計画は、白紙になった。
あの青年がいる限り、無理に外へ出ることは、自殺と変わらない。
シンとレンは背中を預け合う。
互いの鼓動だけを確かめながら、長い沈黙の中で同じことを考えていた。
――あの男は、いったい何者なのか。
そして、なぜ。
そんな力を持ちながら、自分たちを生かしているのか。




