2話 永江麻紀
電気もろくにつけない部屋で少女はふと幸せとは何だろうかと考えてしまう。
ある聖人は幸せとはないものを手に入れた結果ではなく、今持っているものに気づき感謝することで得られると説いたらしい。それを聞いて思った。
聖人とはなんて自分勝手な考えをするのだろうと。
それを素晴らしい哲学と解釈する人間はなんと愚かなのだろうと。
最初から何も持っていない者は幸せを手にする資格はないとでもいいたいのだろうか。そんな皮肉めいた想いが頭を占めてしまい、ふと笑みを零した。決して幸せの一欠片も存在しない笑みであったが。
「ん!ふう!……ぶふ、麻紀ちゃん。気持ちいいかい?」
それをどう勘違いしたのか、義父にあたる下品で豚の様な男がこれまた下品な声で鳴きながら腰を動かす。少女には男が何を言っているのかわからず、早く終わってくれないかと思うだけであった。
ーーーーバンッとドアが開く。そして勢いよく入ってきたのは怒りに満ちた表情の実母の姿。
その姿を見て抱いた少女の感想は助かったという歓喜でもなく、望んでいない行為を見られた恥ずかしさでもなんでもない。何もなかった。やはり少女には何もなかったのだ。
二人の元までゆっくり歩み寄り、充血した瞳で二人を睨む。その姿に萎縮したのか男はそそくさとその場を離れるが女の睨む先は変わらない。そしてーーーー
「この泥棒猫が!!」
ーーーードスンッと横になっている少女の腹に向かってまるでサッカーボールを蹴るかの様に思い切り蹴りつけた。何度も力任せに蹴られる少女は痛みに耐えようとするが、堪えきれずに呻き声を漏らしてしまう。
そんな少女に女は追い討ちかけるかの様に髪を鷲掴み、持ち上げる。もちろん女に少女一人を片手で持ち上げるような筋力はない。ただ単純に少女が無意識に身体を自身で起こそうとしてしまっているのだ。
「何度も何度もあんたは誘惑しやがって!とんだクズだな!!私の娘とは思えないね!!」
そう言い切ると女は思い切り壁側に投げつけた。少女は何の抵抗もすることなく全てをその投げつけられた力に身を任し、壁際にあった本棚の角に頭をぶつけて倒れてしまう。
「人の男取る度胸あるなら、これくらいやられる覚悟もあるってことだろ!!」
倒れた実の娘に心配することなく、むしろさらに罵倒を浴びせる。そうして、女はもう何も言うことはなくなったのか男に振り返る。いつの間にか服を着ていた男は一瞬ビクつき、目を逸らす。
「さあ、裕司さん。行きましょうか?もう店は予約しているんですよね?」
「あ、ああ?今日は何で行く?ベントレーか?フェラーリか?メルセデスでもいいぞ!?」
さっきまでの口調とは打って優しい態度に、男は満面の笑みを浮かべて少女に見向きもせずに部屋を出て行った。それに続いて女もその場を後にする。
部屋の隅で放置された少女は本棚にぶつかった時に切ってしまったのか頭から血を流している。
もし、この部屋の電気がつけられていたならば男と女どちらかが気づいたかもしれないが、運悪く明かりがなく二人に気づかれることがなかった。と言っても、その二人が少女の傷の深さに気づいたとしても治療する可能性は限りなく低いものであることには変わりはない。
ーーーーそして、少女はそのまま起きることはなかった。
+ + +
庭園とは言えない小さな庭。しかし、端から端まで綺麗に整えられた庭の風景は純日本風の庭園慶沢園にも勝に劣らない、と来年国立大学に入学が決まったばかりの高校生家主である私、永江麻紀はそう感じていた。
私は常々家を出たいと思っていた。しかし、唯一の心残りだったこの庭の件だが、ここを離れる必要はなくなった。なぜならば厄介な枷もこの世界にはもういないからだ。
人生で初めて、否、死んでようやく人間らしい自由を手に入れた。なんと素晴らしい世界なのだろうと思う。
十年続けてきた庭の剪定も最近では清々しい気持ちで行い、整えられた庭を縁側で茶請けの煎餅を食べながら庭を眺めて座っている。
すると、後ろの襖が開いて出てきた少年が欠伸をしながら近寄ってくる。
「おはようございます、晴明くん」
「おはよう、麻紀姉ちゃん」
晴明と呼ばれた少年は元々ポーンの八人のうちの一人なのだが、それではわかりにくいと言うことで私が名付けた。
名前の由来は安倍晴明から取っている。服装も神社の神主のように白い装束に黒い烏帽子を着ている上に、晴明の特殊武器もまるで陰陽師安倍晴明であるかのように思えたからだ。
自分ながらいい名前を付けれたと思ってる。
「ちゃんと寝れてるようでよかった」
生前は自分で言うのもなんだけど、碌でもない環境下で育ってしまったため、しばらく前まで悪夢によくうなされていた。しかし、晴明くんのおかげでその悪夢も最近ではすっかり見ないようになった。
「それにしても麻紀姉ちゃんは婆ちゃんみたいだな」
「もう茶化さないでくださいよ」
照れ臭く答えた。
自分が同い年の女の子と違い少し変わっているのは自覚しているが、他人に指摘されると少し気恥ずかしい。
「……一応今日は他のプレイヤー達の偵察行くって話なんだけど」
晴明くんが視線をずらし、私の隣に置かれているバスケットを見る。
「お昼にお腹空くかなって朝の四時半から頑張りました」
喜んでくれたらいいなと思い朝の四時半から起きて多様なサンドウィッチを作った。
今までの環境では家事に何らかの不備があれば殴られ蹴られるなどは当たり前の環境であったために怯えながらこなしていたが、これからは怖がる必要なんてない。
そう思うとすごく楽しく心も軽やかに調理できた。
「……………あの、迷惑でした?」
何も返事をしなかった事に対して不安に感じた。
もしかしたら浮かれ過ぎていたのだろうか、と反省しながら晴明くんの言葉を待つ。
「…………紅茶は?」
「もちろん抜かりなく!」
「じゃあ準備して行こうか。悪いけど少し待ってって」
「はい!」
喜んでもらえたようでよかった。
…………でも、後に知ったのだがどうやら晴明くんはサンドウィッチよりおにぎり派だったようだ。




