17話 翼と清正①
ポーンたちを見送ったあと、僕と清正さんは静まり返った剣道場へと戻ってきた。外を吹き抜ける風の音だけが、開け放たれた窓からかすかに聞こえてくる。
清正さんは入り口付近に置かれた古びた竹籠に歩み寄ると、そこに何本も立てかけられている木刀の中から、年季の入った一本を引き抜いた。
そのまま音もなく道場の中央へと歩いていく。張り詰めた空気をまとうその後ろ姿を、僕は緊張で固くなった体を動かしながら、一歩一歩追うようにして付いていった。
「さてと……」
道場の真ん中でピタリと足を止め、振り返った清正さんが、値踏みするような鋭い視線を僕に投げかける。
「童。ひとまず構えてみい」
その低く響く声に、僕は思わず息を呑んだ。
けれど、これから始まるであろう稽古の前に、どうしてもこれだけは訂正しておかなければならない。そう思い、僕は勇気を振り絞って声を張り上げた。
「あの……、僕、翼です!」
僕の突然の自己主張に、清正さんは一瞬だけ動きを止めた。まさに鳩が豆鉄砲を食ったような、見事なまでにぽかんとした表情がその厳つい顔に浮かぶ。
だが、それもほんの数秒のことだった。次の瞬間、清正さんの顔がくしゃりと歪み、お腹の底から響き渡るような、地鳴りにも似た豪快な笑い声が道場全体に炸裂した。
「そうかそうか!そりゃあお前さんにも名はあるよなぁ。名の重要性を説いた張本人が失念しておったわ、ガハハハ!」
天井を仰ぎ見んばかりに笑う清正さんを見て、僕は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
そういえば、清正さんは名前を付けた方がいいと言ってきていたな。名前を与えられた方が、当人たちのやる気もまるで違ってくるのだと……。
そんな大切なことだと言っていた本人が、目の前の僕をずっと「童」と呼び続けていたのだから、おかしさに耐えきれなくなったのだろう。道場の古い床板を揺らすほどの笑い声が、僕たちの間にあった妙な緊張感を綺麗に吹き飛ばしていった。
「――いや失礼した。それでは翼、改めて構えてみい」
ひとしきり笑い終えた清正さんに促され、僕は楓さんから借りた木刀を両手で握りしめた。じっとりと掌に汗がにじむのを感じながら、ゆっくりと深く息を吐き出す。その瞬間、意識するよりも早く体が自然と動いていた。木刀の切っ先が、自身の体の中心を真っ直ぐに通る正中線の上へとぴたりと収まる。
「……ふむ」
僕の構えをじっと見つめる清正さんの目が、わずかに細められた。それはまるで、こちらの覚悟を値踏みするかのような鋭い視線だった。
「軽く打つぞ?」
低く短い警告とともに、清正さんの木刀が空を切る。風を切り裂く乾いた音が道場に響き、刹那、僕の目の前に木刀が迫っていた。体が反射的に反応し、その一撃をどうにか受け止める。
『何があっても中心軸をずらすなよ』
脳裏をよぎったのは、太州叔父さんのあの厳しい教えだった。右、左、と矢継ぎ早に繰り出される左右からの打ち込み。鋭い風圧が頬をかすめる。
僕はただ必死に、叔父さんの言葉を呪文のように心の中で繰り返していた。自分の軸が、体幹が、この猛攻の中で決してブレてしまわないように。足の裏でしっかりと床を掴み、全身の筋肉を緊張させて猛攻に耐え忍ぶ。
「ふむ……。少し早めるぞ?」
「はい!」
清正さんの声に、楽しげな響きが混じる。直後、木刀の軌道が目に見えて加速した。風の音が一段と高くなった連撃が襲いかかる。
それは僕の動体視力と反射神経がギリギリ追いつけるかどうかの速度だった。防ぐたびに両腕にジンと痺れるような衝撃が走り、呼吸をする暇さえ奪われていく。
「ちと、力を込める。防げよ翼」
その宣言とともに放たれたのは、右上方からの強烈な振り下ろしだった。先ほどまでとは明らかに違う、空気を圧するほどの重量感が頭上から降ってくる。僕は歯を食いしばり、両手にありったけの力を込めて木刀を突き上げた。しかし、上から加わる圧倒的な質量を完全に殺しきることはできない。凄まじい衝撃が体幹を突き抜け、耐えきれず片膝を突いてしまう。それでも――
『視線も逸らすな。相手の目から次の攻撃を予測しろ!』
叔父さんの叱咤が耳の奥で再生される。僕はどれだけ体勢を崩されようとも、決して視線だけは外さなかった。清正さんの瞳を、その奥にある光をじっと睨み据え続ける。次に放たれるであろう一撃を、その視線の動きから少しでも早く、わずかでも正確に予測するために。
だが、期待した次の衝撃は訪れなかった。不意に、清正さんの視線が僕から外れ、剣道場の隅へと向いたのだ。
張り詰めていた空気がふっと緩み、僕もまた、吸い寄せられるようにその視線を追ってしまう。
「休憩にするか」
壁に掛けられた古びた時計の針を見つめながら、清正さんがぽつりと言った。その言葉を聞いた瞬間、全身の疲労が一気に噴き出してきた。息が激しく乱れ、心臓が早鐘のように打っている。
ほんの数分程度にしか感じられなかったあの濃密な打ち合いは、驚いたことに、すでに十五分もの時間を経過させていたのだった。




