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狂人に囚われた証 【Ⅲ】

背後の窓を叩く音に振り返ると、ジャージ姿の山岡がロックの掛かった鍵を指差していた。いつかと同じ状況だと、苦笑混じりに横目でカウンターを見遣ったが、幸い今回は図書委員もおらず、閲覧室にいる他の生徒は机に突っ伏していた。

「今は部活中じゃないの?」

「休憩中だよ。杉林こそ部活は?」

窓のサッシに肘を掛けて、その上に顎を乗せながら山岡は訊く。

「今日はサボり。そもそもうちの部で活躍してるのって、部長と羽生の二人だけだから、二人がいるのさえ顧問が確認すれば、後はとやかく言われないよ」

昨年に全国出場を果たしたその二人は毎日部室に顔を出しているし、恐らく他の部員も対局なり、棋書を読むなり、ちゃんと部活動に参加しているはずだ。幽霊部員でもない自分がたまに休んでも、後々咎められることはないだろう。

余談だが、囲碁・将棋部は先々代部長の一時的娯楽の為に発足された部なのだと、現在の部長から聞いている。創った理由が理由なので、それほど気負う必要もないのだと言い訳がましいことを口にすれば「杉林ってそこまで真面目じゃなかったんだね」と目を丸くされた。

ふと、普段は見上げる位置にある顔がいつもとは逆であることに気付き、微笑が漏れる。

「何?」

「いや、こうやって山岡を見下ろして話すのって久しぶりだなぁと思って」

「そりゃそうだよ。僕は土の上、杉林は建物の床の上。段差があって当然だって」

「でもこの位置でも杉林と同じ目線になるくらいの身長は欲しい」とぼやかれる。ゴールキーパーとしての実力が認められて推薦入学できた身とはいえ、山岡の身長は百七十センチ台。同じポジションの他の選手と比較しても見劣りする。まだまだ成長期なので可能性は否めないが、今はまだ、彼のレギュラー入りは難しいだろう。

「あ、今何時?」

「えっと、あと二分で五時半だよ」

「そろそろ戻んなきゃ」

上半身を引き、一度は背を向けた山岡だったが、数歩歩いて再び仁に向き直った。窓を閉めようとした仁は窓枠に手を掛けたまま動きを止める。

「杉林、鳥羽とのこと……本当にもう大丈夫なんだよね?」

「うん。……山岡にも、園田達にもホントに感謝してる」

ジッと見つめてくる視線に、仁も真っ直ぐ見つめ返す。

「ホント良かった。杉林、教室でもよく笑うようになったし。それにこのあいだまでと比べたら、断然顔色も良くなったよ」

綻ぶような笑みを浮かべて、仁の相談役を買ってくれていた少年はグラウンドへと駆け足で去っていった。

小さくなっていく背に薄っすら微笑を刷きながら窓を閉める。ぐるりと室内を見渡せば、居眠りしていた生徒達は図書室から消えていた。机の上に残されているのは仁が先程まで読んでいた一冊の本のみ。

五時三十分。そろそろ帰る準備をしておいた方がいいだろうと、本を片手に棚へと向かう。どの棚を覗いてみても、人一人いなかった。図書委員もいない。

もしかして鍵を閉めなきゃいけないのかと懸念したが、委員でない自分がそこまでする義理はなかった。ここは六時までの開架なので、図書委員が時間を見計らって戻ってくるか、最悪見回りの教師がいずれ訪れるはずだ。

本を棚に戻したところで足音がした。振り返るよりも先に、自分を覆う影の存在に気付く。

「お待たせ。待たせちゃったな」

「仕方ないよ、委員会だったんだし。それに面白い本見つけて時間潰せたから」

踵を返した仁が破顔すると、相手も安心したように笑みを浮かべた。ゆったりと片手を本棚に預け、もう一方で仁の頬に手を這わせながら指先で耳朶に触れ、ピアスの感触を味わっている。

近付いてくる気配に、仁は自然と双眸を閉じた。

室内に落ちる小さな水音。密やかに、けれども大胆さを含ませて二つの影は重なり合う。いつ誰が来るかも分からない場所での会合。それが互いの気持ちを高ぶらせているのかもしれない。

「ん……」

最後に大きく濡れた音を鳴らして、眼前に佇む相手は上半身を起こした。仁の両腕も、いつの間にかその人物の首に絡まっていた。

「帰ろうか」

「うん」

差し出された大きくて固い掌に自分の手を委ねて、二人は歩き出す。

角を曲がるとき、仁は先程まで立っていた位置を流し目で映した。心理学の中でも犯罪に関する書物ばかりが並べられた、その場所。

山岡から声をかけられるまで眺めていた本は、以前にも目を通したことのあるものだった。先日ふと思い出して、もう一度目を通したくなったのだ。



胸に焼き付き、根を張って浸食している感情が何と呼ばれるものと類似しているのかを確認したかった。

――――そのエモーションもまた、一つの愛情だということを、先程漸く確信できた。



一体何が起こったのか、瞬時には理解できなかった。

眼前には鳥羽の整った容貌。それは先程と変わらない。けれども逆光の所為で、そこに浮かぶ表情がよく窺えなかった。

微かに頭を動かすと、耳元で羽毛が敷き詰められた布団がクシュッと音を立てる。そこで漸く押し倒されたことに気付いた。

「と、ば……?」


――――「愛してくれて、ありがとう」


そう言ったすぐ後のことだった。

「……馬鹿だな、仁。“好き”じゃないだって?ずっと好きだよ。それこそ、初めて会ったときから」

「何言って……」

「気付いてなかっただけだよ。大勢の友達に囲まれるとき、いつも視界の中心を仁に定めてた。無意識に。……あのときはまだ、庇護欲だけだったろうけど」

頬を撫でる、熱を孕んだ指先。眦を細めながら、瞠目する仁を愉悦混じりの笑顔で眺めている。種明かしをする無邪気な子どもの様に、仁の目には映った。

「ちゃんと意識したのはあの夏休みの夜が切欠だけどな。あのとき初めて自覚して、それと同時に愛おしさが胸に満ちた。仁はパニくりながら寝ちゃったし、だからすぐに忘れちゃったみたいだけど、俺はずっと覚えてた。あのときを思い出す度に胸が疼いて……欲情した」

何度も目にした、舌舐めずりする猛禽類のような顔付き。反射的に小動物のように震えそうになりながらも、それを堪えた。鳥羽の胸の内を聞く折角の機会なのだ。他のことに意識させる動作や言動など、とてもできるような状況じゃない。

「仁が他の誰かと……男も女も、教師も先輩も関係なく、誰かと喋ったり、声を聞いて反応したりするのが、物凄くムカついた。俺じゃない誰かを視界に入れるのが嫌だった」

丸い輪郭を上から下へ辿っていた指に力が篭り、仁の顎を掴み上げる。あまりに強引で思わず顔を歪めるものの、鳥羽は手を緩めることなく、瞳に揺らめく炎を覗かせながら仁を見据えている。

愉悦、憤り、哀願、独占欲、恍惚……色んな感情が見え隠れするものの、どれもが正解であり、全てが不正解のようにも思えた。けれども明らかに間違いのないことがある。……今の鳥羽に困惑はない。気味の悪いくらい、鮮明な光が宿っていた。

狂気だ。瞳孔が開いて、歪さを感じさせられながらも、惹かれそうになるほどに澄みきっている。

「……ゃだ」

「仁?」

「イヤだ……嫌だ、イヤだ、いやだ、嫌だ厭だ嫌だいやだイやだイヤだ厭だ嫌だやだやだヤダやだヤだヤダヤダやダやだヤダ――――!」

全身に鳥肌が立った。背筋が凍る。毛穴が開いて嫌な汗が滲み出てくる。恐怖で生理的な涙がとめどなく落ちてくる。

「仁」

近付いてくる気配を察してとにかく暴れた。腕を振り、足をバタつかせ、じりじりと後方に下がろうとするも、ベッドのすぐ後ろは壁だ。逃げ場はない。無駄な足掻きと呟く声が胸のどこかで聞こえた。

「っ!」

指先に濡れた感触があった。引っ掻いたのかもしれない。けれども思い切り瞼を閉じて暴れる仁には、鳥羽がどのような傷を負ってるのか知る由もない。

「仁!」

覆うようにして抱きつかれ、刹那動きが止まるものの、仁は再び暴れ出した。先程以上に声を荒げ、鳥羽から離れようと身を捩る。

もはや本当に狂っているのがどちらなのか、判別できなくなっていた。正常と異常の境界線がどこにあるのか、分からない。

「離せ!イヤだ!離せ、はなせよぉ!」

「離さない。俺を拒絶しないで、仁」

「離れてよ!もう僕に構わないで。僕が悪かったんだ!ごめんなさい、許して、許してぇ……!」

頭に酸素が回らない。息苦しい。悲しい。目が熱い。喉が痛い。ごめんなさい。気持ち悪い。胸が痛い。……寂しい。

……いつの間にか室内は静まり返っていた。

自分の呼吸音が大きく耳に届く。全速力で走った後や、風邪を拗らせたときでさえこんな音は出なかった。

双眸は限界まで見開いていた。涙と鼻水と涎で濡れた感触が気持ち悪い。瞬きさえ億劫で、真っ直ぐ前を向いたまま袖で顔を拭おうと腕を上げてみるが、上がらなかった。何かが邪魔をしている。

茫然とした意識の中、何が自分の動きを封じているのか確かめてみた。脂肪の薄い肩、柔らかそうな黒髪、破れたジーンズを履いた脚も視界の隅に入る。

「っく……ぅぅ、ひっく……」

鳥羽が、身体を震わせて泣いている。仁はぼんやりと自分の肩口が濡れていることを自覚した。

鼻水だったら嫌だなぁと、場の雰囲気に相応しくない感想が、あまりにも客観的で自嘲を誘う。

「………鳥羽?」

名を呼ばれてのろのろと仁の肩から顔を離しつつも、顎は引いたままだ。長い前髪は目元を隠し、鼻先と水平方向に雫が二点から零れている。嗚咽はないが、鼻を頻繁に啜っていた。

恐る恐る相手の頬に触れてみる。仁にしてみれば、数年に亘り精神的に散々甚振ってきた存在なのだから、当然血も涙も冷たいものだと思い込んでいたわけだが、意外にも温もりが宿っていた。

親指で皮膚を軽く押してみる。自分のものに比べたらだいぶ固かったが、人形と違って弾力があった。

「顔を上げて、鳥羽」

泣き喚いた所為で声が掠れ、聞き取り辛い音になってしまったが、それでも彼は言われたとおり顔を上げた。細い眉の間に皺を作り、鼻腔を膨らませ、肉厚の唇は血が滲むくらい強く噛み締めている。眦だけではなく、目頭からも涙が滲み出てきていた。頬の上を幾筋もの涙が後を追うようにして滑走していく。

人の泣き顔を綺麗と思うことなど、一度としてなかった。これが可愛らしい女子ならともかく、相手は男――――しかも鳥羽だ。

胸の奥でざわめきが生まれる。けれどもそれはどこか静かで、例えるなら水面の波紋、小波のようだった。

「鳥羽……」

一度は泣き止んだ仁の目にも、再度潤みが生まれた。やがてそれは盛り上がり、一度の瞬きで容易く零れ落ちる。

鳥羽の頬に触れていた指先は、気が付けば赤く輝くピアスへと向かっていた。

サファイアは慈愛、愛の不変。

ガーネットは持つ者に変わらぬ愛情を注ぐ。

自分に相応しいのがサファイアなのか、それともガーネットなのかは分からない。けれども今、鳥羽に抱いている感情は、確実に今まで胸の内にはなかったもの。

相手の後頭部を掴んで引き寄せたのは、どちらが早かったのか。二人ともが双眸を閉じて、互いの唇を貪るようにして交し合った。どちらのものか分からない唾液が顎を伝い、舌が絡み、息苦しさを覚えて一度顔を離そうとしても、もう一方が後を追いかけて離さない。

最後に大きく濡れた音を弾かせて、漸く双方の唇を引かせてみれば、繋がっていた証を残すように銀糸が生まれ、やがて鳥羽が唇を動かしたことによりプツンと切れた。

「……仁、お願い。俺を拒絶しないで。仁が俺から離れるなんて、絶対耐えられない。俺の感情を生かすのも殺すのも、全部仁が中心なんだ。仁が誰かと喋ったり笑ったりすることさえ、嫉妬で気が狂いそうになる。今まで仁を諦める考えさえ浮かばないくらい、仁にしか向けることのできない狂った愛に溺れて、仁からの愛に渇望してる」

切なげに眦を細めて淡々と紡ぐ言葉の数々。自分に与えている感情が異常であることを、鳥羽は理解していた。

その事実だけで全てを感受しようとする己がいることに、仁は初めて気が付いた。先程のキス、あれが鳥羽への答えなのだと。

学校の図書館で以前読んだ本を思い出す。その中にあったある言葉。

“ストックホルム症候群”。

「……鳥羽、さすがに鳥羽以外の人と話さず生きていくことなんてできないよ。でも漸く僕も自覚した。僕の主軸は、鳥羽恭士ただ一人だ」



“ストックホルム症候群”――――被害者が加害者と時間や場所を共有してしまうことによって、必要以上の同情や連帯感、好意などをもってしまうこと。




―― 完 ――

以前投稿した『麻生学院大付属高校一年一組』の一人に視点を置いた、BL長編……とりあえず一ヶ月で終わらせることができました。

タイトルから結末が見えてしまう物語ではありましたが、客観的には後味の悪いハッピーエンドといったところでしょうか。鳥羽の執着心や独占欲をもっとドロドロのネチョネチョに表現できたら臨場感があってよかったんでしょうが……これが現在の作者の限界です(泣)

いずれ機会があればまたBLに挑戦したいです。その際はもっと明るい話にしたいと思います。


ご愛読ありがとうございました。

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