9話
アルディス魔道学園、最上階に位置する学園長室。
重厚なデスクを挟み、二人の最高権力者が対峙していた。
「今の安寧など、砂上の楼閣に過ぎません。……そうは思いませんか、学園長」
厳しい、しかし確かな敬意を孕んだ声音でそう告げたのは、副学園長バサラ・ヴァーミリオン。
年齢は44歳。
名門ヴァーミリオン侯爵家に名を連ねる女性であり、若かりし頃は美しくも妖艶な姿で社交界の視線を浴びた女性だ。
しかし今の彼女の顔や首筋には、かつて帝国軍に在籍していた頃に刻まれた、苛烈な傷跡が目立っている。
敵陣へ勇猛果敢に飛び込み、あらゆる敵を凄惨に血祭りにあげるその戦いぶりから、軍部では鮮血の女帝と恐れられた生粋の武闘派。
それが、銀級魔道士にして魔剣士でもあるバサラという女だった。
対する学園長のマルヴァスは、眉をひそめてバサラを見上げる。
「急に何だ、突拍子もない」
「エドゥアルト陛下の力が衰えてきていることは明白でしょう。魔道研究院やクレイドルのおかげで魔道の発展は著しいですが、それに伴い、光の裏にある闇もまた色濃くなっています」
バサラは腕を組み、冷徹な現実を突きつける。
「例えば私の家門が管轄するヴァーミリオン領では、賊や魔物に襲われたという凶報が確実に増えている。それに、帝国指定の警戒地域では、すでにいくつかの魔物の氾濫の兆候すら観測されているのですよ」
「…………」
「ヴァンドラー家だって、先月闇組織の者と交戦になったと聞きましたよ」
「……まさか、目を背けているわけではありませんよね? 」
「学生は帝国の未来だ」
マルヴァスは机の上の書類に視線を移し、しかし毅然とした声音で応じる。
「優秀な魔道士を一人でも多く育て、未来へ繋いでいく。それこそが私の使命だよ」
「それにしては、今の学園のやり方はぬるすぎます。昔の、私たちが死線を潜り抜けていた頃とは、全然違うじゃありませんか」
バサラは一歩、机へと歩み寄った。
「……アズマ殿の、あの特別講義のことを言っているのです」
「ふむ……アズマ殿の講義か」
マルヴァスが再び顔を上げる。
「はい」
バサラは机を強く叩いた。
その衝撃で、高価なインクのボトルが小さく跳ねる。
「古代魔法のことです。私はその魔法について深く知るわけではありませんが、どう考えても特殊な分野です……学園長でさえ、扱えるわけではないのでしょう?」
「ああ……そうだな。古代魔法について研究している魔道士は多いだろうが、まともに考察できる書物は意外と少ないんだ。最近は新しく見つかった遺跡から徐々に情報が増えているとはいえ、学園の生徒にそれを教えるなど、確かに初の試みだろう」
「やっぱり……!」
バサラは勝ち誇ったように、しかしより一層鋭い眼光でマルヴァスを見つめた。
「まさかそんな最先端の、帝国内の力関係すら変えかねない分野を、貴族たちの金と権力に飽かせた裏交渉で決めるつもりではありませんよね? これまでのような書類選考や生ぬるい面接で、未来の帝国を背負う魔道士を決めてはいけないでしょう」
戦場を知るバサラにとって、平和ボケした今の学園の選定方法は、正直おままごとの延長にしか見えなかった。
「魔道士とは、命をかける場に身を置いてこそ真に磨かれるもの。古代の荒々しい魔法を学ぶのであれば、選定の段階から、昔のように命を賭した競争が必要です。死線をくぐり抜け、自力で席を勝ち取ってきた者こそが、その力を得るにふさわしい」
「具体的には、どうするつもりだ?」
「もっと危険な場所での訓練、あるいは競争。例えば魔物の討伐数とか……これらを選考基準とするべきです」
バサラは不敵に、傷跡の残る顔を触って笑った。
「……シュトラウス伯爵領内に広がる、あのフィルゼンの森を使うのはどうでしょう?」
その場所を聞いたマルヴァスの表情がわずかに曇る。
フィルゼンの森。
そこは濃密な魔力に満ち、生態系そのものが魔力の影響を受けて異常な進化と変異を遂げた広大な森林地帯だ。
その危険度から、普段は魔道士や冒険者の階級に応じて立ち入りが厳しく制限されている。
「あそこなら十分な訓練になるでしょう」
バサラは次々と、その危険な計画を語り出す。
「外縁の浅層部であれば学生の実力でも立ち入れます。数多くいるゴブリンやホブゴブリン、器用なコボルトどもを相手に競わせるのもいい……いや、それでは生ぬるいな。古代魔法を求める貪欲な者どもには、銅級魔道士の領域である中層部へ踏み込ませるべきです」
バサラの脳裏に、あの霧深い森の光景が浮かぶ。
「集団で狩りを行うフォレスト・ウルフ、そして幻惑の鳴き声で霧に隠れるフォルゲン・ウルフ。さらには巨体のトロールすら生息するあの地で、魔物だけでなく、森そのものが放つ恐怖に耐え抜いてみせろ、ということです」
「……中層部か。まだ鉄級にも満たない志願者にとっては、文字通りの死地だな。間違えて奥までいけば、銀級以上しか立ち入れん深層部の魔物ともかち合う恐れすらある」
バサラの提案は学生に対して容赦がないものだった。
しかし、その根底にあるのは、迫りくる時代の足音に対する、彼女なりの強烈な危機感であった。
今のぬるま湯のままでは、いずれ帝国そのものが他国との戦いに敗れ、あるいは魔物の氾濫で滅びかねないという確信があるのだ。
「死ねばそれまでの器だったということです」
――ピキリ、と室内の空気が凍りついた。
さすがにその発言は看過できないと思ったのか、マルヴァスは少しの間だけ金級魔道士としての圧倒的な威圧をバサラに向けた。
「う!?」
肌を刺すような絶望的なまでの魔力の重圧に、バサラは呻くように下を向く。
冷や汗が傷跡を伝うのを感じながら、彼女は己の失言を悟り、慌てて言葉を訂正した。
「も、もちろん安全のために私も立ち会いますし、他にも手練れを何人か連れていきます」
マルヴァスは椅子の背もたれに体を預け、しばらくの間、天井を見上げていた。
沈黙が部屋を満たす。
やがて、マルヴァスは苦笑を漏らした。
「相変わらず手厳しいな。周りがお前にヴァーミリオン侯爵家の当主になれと急かす理由がよく分かる。そなたのような苛烈な女が上に立てば、さぞ軍部も引き締まるだろうに」
「ふん、お断りいたします」
バサラは腕を組み、真摯な、しかし熱を帯びた目でマルヴァスを見つめた。
「何度も申し上げているはずです。私は、マルヴァス様にこそエドゥアルト陛下の後を継いでいただきたいのです。あなたはこのような、たかが一つの学園で収まるような器ではございません。先ほどの威圧だけでも私より遥か上の力を持っていることが分かります。あなたはもっとその圧倒的な力を天下に誇示すべきなのです。次代の帝国を導くのは、帝国広しといえど、あなた様しかおられません」
バサラの言葉は、単なるお世辞ではなかった。心からの崇拝と、この男なら帝国を守れるという信頼に満ちていた。
彼女が当主の座を拒むのも、すべてはこの男を最高の位へと押し上げるための布石に過ぎない。
「だからこそ、この特別講義を利用するのです。アズマ殿がもたらす古代魔法、それを欲する生徒たちの生殺与奪の権を、選定試験を通じてあなた様が握る。これほど強力な交渉カードはありません」
マルヴァスはバサラの熱弁を受け止め、静かに口元を緩めた。
「相変わらず過激な女だ……」
マルヴァスは机の上の書類をまとめ、引き締まった表情で頷いた。
「わかった。選定試験の舞台はフィルゼンの森とする。試験内容については一任するので、あとはバサラの考えで執り行うといい。一応アズマ殿には私から話を通しておこう」
「ありがとうございます。ふふっ……帝都の軟弱な貴族のガキどもが、何人泣き叫んで逃げ出すか……これこそが、本物の戦場というものです」
そう言い終わると、鮮血の女帝は、学園長へ恭しく一礼した。
傷跡の残る顔に狂気に満ちた美しい笑みを浮かべるバサラを見やりながら、マルヴァスはふっと息を漏らすように再び口を開いた。
「ところで、学生への試練については分かったが、私が皇帝になるというのは、いささか無理があるぞ」
どこか呆れたような、しかし現実を冷静に見据えたマルヴァスの指摘に、バサラの身体は硬直した。
「なぜですか?」
「年齢が年齢だしな。それに、そもそもルドルフが認めない。……ヴィンセント公爵もな」
魔道研究院を牛耳る金級魔道士ルドルフ。
そして、軍部や保守派貴族を束ねる重鎮ヴィンセント公爵。
学園長マルヴァスと並び、帝国魔道を代表する巨大な二つの名。
だが、バサラはその名を聞いても眉一つ動かさなかった。
「ルドルフ殿のような頑固爺など、さっさと墓に入れてやればいいではありませんか。それにヴィンセント公爵とは戦場で共に戦った仲です。私になら、彼を説得できる自信があります」
「いやいや。ルドルフとは学生の頃、何度も戦ったからよく分かる。実力は互角だよ」
「今はルドルフ殿とは戦っていませんよね?」
「そりゃあ、学園を卒業してからは戦っておらんが……階級はどちらも金級だぞ」
マルヴァスが自嘲気味に告げると、バサラの瞳の奥に宿る熱が一層濃くなった。
「銀級の中だけで考えても、上位の者と下位の者では、その実力は天と地ほども違うものです。ましてや、魔道の最高峰である金級に至っては、その中にさらにどれほど絶望的な差があるか……私には想像もつきません。ですがきっと、ルドルフ殿よりマルヴァス様の方が強いでしょう!」
その盲目的なまでの信頼と、鋭い審美眼。バサラはきっぱりと言い切った。
「現エドゥアルト皇帝の後を継ぎ、この帝国を導けるのは、マルヴァス様を置いて他にいません」
マルヴァスは小さく肩を揺らして笑った。
「そう言ってくれるのは嬉しいが、私はもう見つけているのだよ。陛下に奏上する者をな」
その言葉に、バサラの表情がぴくりと強張った。
「……アズマ殿のことですか。ふっ、私にはまったく分かりませんね」
あからさまに声音を冷たくした副学園長に、マルヴァスはいたずらっぽく目を細める。
「嘘を言うでない。お前も彼の講義にあっけにとられていたのであろう?」
「そ、そんなことはありません! あれは妄想の類です! 信じるに値しません!」
図星を突かれたバサラは、かつて女帝と恐れられた威厳もどこへやら、フンッと横に顔を向けてそっぽを向いた。
傷だらけの頬が、怒りと気恥ずかしさでわずかに赤く染まっているのを、マルヴァスは見逃さなかった。
アズマがもたらした規格外の衝撃は、この頑なな戦鬼の心をも、確かに揺るがしていたのだった。




