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8話

帝国中央北部に位置する領地。


その中心に建つレチリア子爵邸の書斎で、当主アルベール・レチリアは、薄暗いランプの光の下で一枚の手紙を握りしめていた。


帝都で暮らす息子ノエルから緊急で届いた手紙。


そこには、アルディス魔道学園の中央掲示板に貼り出されたという、特別講義の告知内容が克明に記されていた。

紙面に躍る、定員30名という無慈悲な文字を見つめるアルベールの指先は、情けなく細かく震えていた。


「たった、30人……。これでは、これではあまりにも……!」


アルベールは深く、苦い溜息とともに椅子の背もたれに体を預けた。

彼の胸を支配しているのは、言葉にできないほどの焦燥感と、己の無力さに対する激しい自責の念だった。


レチリア家は、かつては魔道の歴史にその名を刻んだ輝かしい名家だった。


魔法書の編纂や魔道具開発の販売において、帝国で右に出る家門はないとまで称えられていたのだ。


しかしそれも、すべては過去の栄光に過ぎない。


潮目が変わったのは、約30年前のことだ。

帝国の国家戦略として帝都に魔道研究院が設立された。

今や質の良い魔法書はすべてそこで編纂されるようになり、レチリア家はお株を奪われた。

さらに追い打ちをかけるように、魔道具の作成にいたってはクレイドルの独壇場となっていく。


家門の利権を次々と失った結果、アルベールの父の代で、レチリア家は伯爵から子爵へと降爵の処分を下されてしまった。


先祖代々の名門を没落させてしまった責任を取り、先代である父は憔悴しきって引退。

そうして息子のアルベールが当主の座を引き継いだのだった。


しかし、アルベールもまた先代と同じ銅級魔道士であり、領地経営における才覚についても、特別なものは持ち合わせていなかった。


一般的な魔道士である鉄級よりは上の階級とはいえ、伯爵だったかつての威光を取り戻すためには、あまりにも実力が足りない。


それでも、彼はなんとかして家門を復興させたかった。

大きな負い目を感じて屋敷を去っていった、あの時の父の寂しげな背中が、今も脳裏に焼き付いて離れないからだ。


アルベールは子供の頃からサボらずに魔道士として血の滲むような努力を重ねてきた。

だが、残酷にも才能の壁は厚く、どれだけ魔法を修練しようとも階級は銅級止まり。

銀級への道は遥か彼方に霞んでいた。


「私にもっと才能があれば……!」


魔道研究院よりさらに昔から、細々と活動していたとされる組織、クレイドル。

アルベールが子供の頃は、そんな名前は聞いたこともなかった。

父ですら名前だけは知っているという程度の認識だったはずだ。

それにも関わらず、近年のクレイドルの勢いは凄まじいの一言に尽きる。


約5年前、彼らが公表した新商品である魔力石。魔物から採れる従来の魔石を特殊加工し、魔力濃度を極限まで保ったその一品を皮切りに、彼らは革新的で利便性の高い魔道具を次々と世に送り出し、瞬く間に帝国の富を独占していった。


帝国は今まさに歴史的な魔道革命の真っただ中にあるというのに、本来その中心にいるべきレチリア家門は、完全に蚊帳の外へ置かれている。


現在のレチリア家が作っているのは、どこにでもあるような家庭用の生活魔道具や、安価な魔力灯といった一般的な魔道具ばかり。


しかしそれすらも、最近になって大商会が持ち前の資本力で市場に参入してきたせいで、みるみる売上が落ちてきている。

経済規模の小さくなった今の家門の状況では、大商会の容赦のない価格勝負に対抗できるはずもなかった。


だが、それでもアルベールはまだ心を折られてはいなかった。

家門にはまだ、たった一つだけの希望が残されていたからだ。


息子、ノエル。


ノエルは子供の頃から魔法の理に明るく、アルベールが教えたことはまたたく間に吸収し、帝国一の学園であるアルディスへと入学を果たした。


さらにはその精鋭集団の中でも若き才覚を発揮し、トップクラスの成績を収めている。

無事に卒業すれば、すぐに領地に戻して当主の補佐をさせる予定だった。


そんな自慢の息子から届いた、一世一代のお願い。


慌てて書き殴ったことが伝わってくる乱れた筆脈からは、何としてでもこの講義に参加したいという強い願いが滲み出ていた。


それにアズマという講師が、実はクレイドルに勤めているという情報は、アルベールを大いに震撼させた。


まさか、不倶戴天の商売敵である組織の男に、息子が師事したいと言い出すなど、彼にとっては文字通りの青天の霹靂だった。


しかし、そのアズマが教えるという古代魔法を修めることができれば、息子の実力は間違いなくさらに跳ね上がる。


ノエルはまだ学生ゆえに資格上は鉄級にすら満たない魔道士の卵だが、自分のような凡才とは格が違う。

あの子は磨けば帝国を揺るがすほどの、未完の天才なのだ。


だが、その未来を掴むためのチャンスは……わずか30席しかない。


「ゴードン、これを見ろ」


重苦しい沈黙を破り、アルベールは部屋の壁際に控えていた老執事へと手紙を差し出した。


「拝見します、アルベール様」


白髪を綺麗に整え、燕尾服を完璧に着こなした老執事ゴードンは、恭しく手紙を受け取り、その鋭い目を走らせた。


「選定方法はまだ分からないが、どう転んでも過酷な椅子取りゲームになる。おそらく帝都の上級貴族たちが、権力と金を使って裏で独占しようと動くはずだ……我がレチリア家にとっては最後のチャンスかもしれない」


アルベールは、先代の代から我が家を支え続けてくれている忠臣の目を、じっと見つめた。


そして、彼に見えるように、机の中から取り出した闇色の封筒を机に置く。


「……ずっと無視し続けていたが。そろそろ、奴からの提案を受け入れる時が来たようだ」


以前、その手紙の主から届いていた「困った時はいつでも力になる。連絡を乞う」という不気味なメッセージ。

ゴードンと共に一度直接会ったこともある。


黒いローブを被った怪しい奴だった。


そんな奴を利用してでも、息子のためにアルディスでの席を確保しようというのだ。


ゴードンは一瞬で主人の意図を察し、その表情を強張らせた。


「なりません! あまりにも危険です! あのような素性の知れない男に協力を仰げば、今度こそ本当に、我が家は国から見放されるかもしれません!」


「だが、私はノエルに我が家のすべてを賭けたいんだ! 私のような凡才のままでは、レチリア家はジリ貧になって滅びるのを待つだけだ……自分という存在がどうなろうと構わない。生贄に捧げてでも、私はレチリアの名を再び高みへと、また伯爵の座へと押し上げたいんだ!」


「しかし、そのような外部の手を使えば、他の親族や領民たちに示しがつきませぬ!」


「誰にも言わん。私と、ゴードンだけが知っていればいいことだ」


「アルベール様、奴に協力した結果がどうなるか、本当に分かっておいでなのですか!? 下手を出せば、我が家の再興どころか、罪なき領民たちをさらに困窮させ、危機に陥れることになるかもしれないのですよ!」


「……それについては、領民には絶対に危害を加えないと、奴に必ず約束してもらう」


「そんな約束、何の担保になりましょう! 口先だけで甘い言葉を並べ、裏ではどんな悪事を働くやもしれませぬ。悪魔の誓いなど、信じるに値しません!」


「それでも……私はもう決めたんだ、ゴードン。他に、もう手がないんだ……!」


悲壮な声を絞り出し、苦悶に顔を歪めるアルベールの姿を、老執事はそれ以上拒絶することなく、ただ静かに受け止めていた。


アルベール伯爵が、どれほど切実な願いを抱え、どれほど孤独に追い詰められているか、ゴードンは痛いほど分かっていたからだ。


「……はぁ。承知いたしました」


ゴードンは深く長い溜息を吐くと、自身の胸元に手を当て、優しく、しかし確固たる意志を込めて微笑んだ。


「そこまで固い覚悟でおられるのなら、もう私の言葉などでは変わらないのでしょう……それならば、私も腹をくくります。アルベール様、私も共に、その奴とやらの軍門に下り、協力をいたしましょう」


「なっ……!? 何を言っているんだゴードン!」


「おや、まさか私を置いていかれるおつもりですか?」


主人の狼狽ぶりとは対照的に、老執事は酷く冷静な、けれど芯の通った声で言葉を紡ぐ。


「私は先代様の頃から、長年このレチリアの家に仕えてまいりました。世間一般で言えば、とっくに隠居して余生を過ごしている年齢です。今更、惜しむ命などありません。アルベール様と共にこの身を闇に差し出すこと、これ以上の本望はございませんよ」


「正気か……? 奴の話では、協力の対価として若干精神がおかしくなるという、呪いのような祝福を受けないといけないのだぞ……?」


「前もって正直にそこまで白状してくれているのです。それなら、案外律儀な相手ではありませんか。なにも命まで取られるわけではないのでしょう? それに……」


ゴードンは不敵に、そして慈愛に満ちた目でアルベールを見つめた。


「私も死ぬ前に一度、見たいのです。ノエル坊ちゃまが羽ばたき、我がレチリア家が美しく再興する、その瞬間を」


「ゴードン……」


部屋を照らすランプの炎が、怪しく、しかし力強く揺れる。


絶望の淵で闇の手を取ることを決めた当主と、その狂気にどこまでも追随することを誓った老執事。


二人の男の強固な覚悟が交錯し、レチリア家の運命は、誰も予想のつかない激流へと巻き込まれていくのだった。


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