第88話 魔王にも出来ないこと
(——先に動いた。しかも、自分には絶対にできない方法で)
エレンが倒れてからというもの、結衣の態度が変わった気がする。
ノクスは、キッチンで結衣の作業を手伝うエレンを見ながら眉を寄せた。
「結衣ちゃん、紐取れかかってる」
「え、嘘」
エプロンの紐が解けそうだと、エレンがそっと結び直す。
「ありがとう」
「結衣ちゃんの素敵なエプロン姿に、こっちが感謝だよ」
「もう、何それ」
背後から覗き込むように、エレンが結衣に顔を近づける。
(近い……‼︎)
グシャリ、とノクスの持っていた本が悲鳴を上げる。
それと同時に、ノクスの後ろにいたキリの鉛筆が、バキリと折れる音がした。
「近いって、エレン」
((そうだ、言ってやれ結衣……‼︎))
二人の声にならない声が重なる。
「えー? こんなに美人な僕を間近で見られるなんて、向こうの世界だったらありえないんだよ?」
「はいはい、福眼ですね」
適当にあしらいつつも、結衣の頬は少し赤い。
ノクスの視線が、わずかに細くなる。
(なぜ、警戒しない)
それどころか。
(……なぜ、受け入れている)
ほんのわずかに、思考が揺れる。
(……いや)
違う。
「……気に入らん」
ぽつりと、漏れる。
理由は明確なはずなのに。
どこか、言葉にしきれない。
その隣で。
キリが、無言のまま新しい鉛筆を取り出していた。
そんな様子を横目に見ながら、エレンは込み上げてくる笑いを抑えるのに必死だった。
(分かりやすすぎ)
こちらが動けば、分かりやすいぐらいに反応するのが約二名。
明らかに不機嫌そうに眉間にシワが寄っているし、口角は下がりきっている。
結衣は結衣で、こちらがからかっているのを分かりつつも、顔を赤くする姿が可愛らしい。
(これは当分、退屈しないだろうな)
人間の宿敵とされる魔王が目の前にいるというのに。
今までの人生で、一番平和で面白い毎日だ。
それは、昼下がりのことだった。
店の引き戸が、勢いよく開く。
入ってきたのは、五十代くらいの男性だった。
赤ら顔。
よれたシャツ。
足元が、わずかに揺れている。
(……お酒、飲んでる)
一瞬で分かった。
「いらっしゃいませ」
それでも、結衣は笑顔で声をかける。
男性は、棚に並んだ値札をじろりと見た。
そして。
「高ぇな」
ぼそりと言う。
「はい、最近は仕入れ値も上がっておりまして……」
「そういう話じゃねぇんだよ!」
突然、声が跳ね上がった。
結衣の肩が、びくりと揺れる。
「どうにかなんねぇのかよ! 米ぐれぇ、もっと安くしろよ!」
ドン、とカウンターに手をつく。
近づいてくる。
酒の匂いが、鼻をついた。
強い。
思わず、一歩引く。
その瞬間。
ノクスの手が、わずかに動いた。
キリも、すっと腰を浮かせる。
――だが。
「いやー、おじさん分かります分かります」
それより早く、軽い声が割り込んだ。
エレンだった。
するりと結衣の前に出て、男性の隣に並ぶ。
まるで旧知の仲みたいに、自然な距離感で。
「ほんと最近、何でも高くなりすぎですよね」
にこにこと、まったく警戒していない顔で言う。
男性が、面食らったように振り返る。
「……あ?」
「お米だけじゃないですよね。野菜も、光熱費も」
エレンは続ける。
共感するように、少しだけ眉を下げて。
「生活費、じわじわきますよね」
「そ、そうだよ! 分かってんじゃねぇか」
男性の声が、少しだけ落ち着く。
怒鳴る相手が、急にいなくなった感じだった。
「こっちはちゃんと真面目に働いてんのに、なんで米ひとつ買うのにこんな苦労しなきゃいけねぇんだって話だよ」
「ほんとそうですよね」
エレンが頷く。
「頑張ってる人が損するの、おかしいですよね」
「そうそう! 分かってんじゃねぇか、兄ちゃん!」
男性が、すっかり機嫌よく笑う。
さっきまでの怒気が、どこかへ消えていた。
「ちょっとそこまで送りますよ」
「え?」
「足元ふらついてるし。家、どっちですか?」
「あ、ああ……三丁目だけど」
「じゃあ行きましょう」
エレンは男性の腕をさりげなく取って、そのまま店の方を振り向く。
「結衣ちゃん、ちょっと外出てくるね」
「え、あ……うん」
「すぐ戻るから」
にこっと笑って、引き戸をくぐる。
からり、と扉が閉まった。
店内が、静かになる。
「……」
「……」
ノクスとキリは、並んで扉を見つめていた。
動こうとした。
でも、その前に全部終わっていた。
外に出ると、日差しがじりじりと照りつけていた。
男性は上機嫌で歩きながら、ぶつぶつと愚痴を続けている。
「いやー、あの店は高いけどよ、兄ちゃんみたいなのがいるならまあいいか」
「ありがとうございます」
エレンは、笑顔のまま隣を歩く。
「うちの女房が最近うるさくてよ。米代が高いって毎日言うんだ」
「そうなんですね」
「お前みたいな話の分かるやつが、あの店にいてくれりゃな」
「それは光栄です」
にこにこと相槌を打ちながら、エレンはふっと視線を男性に向けた。
横顔を、一瞬だけ見る。
(さて)
自然な動作で、男性の肩に手を置いた。
「おじさん」
「ん?」
「ひとつだけ、聞いていいですか」
声のトーンは、変わらない。
笑顔も、変わらない。
ただ。
肩に置いた手の、握る力だけが――わずかに変わった。
「……っ」
男性の体が、固まる。
痛い、というより。
なんか、やばい。
そういう感覚が、本能を直撃した。
「女の子を怖がらせるのは、感心しませんね」
穏やかな声。
笑顔のまま。
でも。
肩を掴む手から伝わってくる何かが、酔った頭をじわりと覚まさせていく。
「さっきの子、結構怖がってたと思いますよ」
「……」
「おじさんが悪い人じゃないのは、分かってます」
一拍。
「ただ、怒鳴られた方は、そう判断する余裕がないんですよね」
男性は、何も言えなかった。
酔いが、急速に引いていく気がした。
「奥さん、いるんですよね」
「……ああ」
「その人の顔を、怒鳴る前にちょっと思い出してみてください」
力が、すっと抜ける。
肩に置いた手が、また普通の重さに戻る。
「はい、着きましたよ」
顔を上げると、三丁目の角に差し掛かっていた。
「……ここだ」
男性が、しばらく黙ってから、ぽつりと言った。
「……悪かったな」
「いいえ」
エレンは、にこりと笑う。
「来てくれただけで、ありがたいですよ」
一拍。
「またよかったら、うちの店に来てください。美味しいお米、ちゃんとありますので」
男性は、しばらく俯いていた。
それから。
「……ああ」
小さく頷いて、家の中へ消えていった。
エレンは、その背中を見送ってから、軽く息を吐いた。
(はい、終わり)
踵を返して、来た道を戻り始める。
店に戻ると、結衣がお茶を入れて待っていた。
「……おかえり」
「ただいま」
「大丈夫だった?」
「全然」
エレンは、いつも通りの顔で椅子に座る。
差し出されたお茶を受け取って、一口飲む。
「あの人、家まで送ったの?」
「うん。ちょっと遠回りしてきた」
「遠回り?」
「んー、話してたら長くなっちゃって」
さらっと言う。
「ありがとう」
結衣が、静かに言った。
「助かった」
「全然大したことないよ」
「……大したことあるよ」
結衣が、少しだけ笑う。
その目が、さっきより柔らかかった。
その様子を。
少し離れた場所から、ノクスが見ていた。
腕を組んだまま、何も言わない。
(……先に動いた)
それだけが、頭に残っている。
動こうとした。
でも、エレンの方が早かった。
しかも――自分には絶対にできない方法で、綺麗に終わらせた。
(……気に入らん)
いつもの言葉が、また頭をよぎる。
でも今回は、その言葉の意味が、少しだけ前と違う気がした。
キリは、窓の外を見たまま黙っていた。
鉛筆を、指先でくるくると回している。
それが、少しだけ速い。
その二人を横目に。
エレンは、お茶をもう一口飲んだ。
(ほんと、分かりやすい)
口元が、自然にほぐれる。
数日後。
店の引き戸が、静かに開いた。
入ってきたのは、おとなしそうな女性だった。
四十代くらいで、隣には――あのおじさん。
別人みたいに、しゅんとしていた。
「先日は、主人が大変ご迷惑をおかけして……」
女性が、深々と頭を下げる。
おじさんも、つられるように。
耳まで赤い。
「家に帰ってきたら、すごく反省してて……送っていただいた方に、ちゃんと怒られたって」
「……怒られた、というか」
エレンが、少しだけ首を傾げる。
「ただ、話しただけですよ」
「いえ、本当にありがとうございました」
女性が、もう一度頭を下げる。
「お米、ちゃんと買わせてください」
おじさんが、ぼそりと言った。
「正規の値段で」
「……ありがとうございます」
結衣が、袋を用意する。
その手が、少しだけ温かかった。
夫婦が帰った後。
「……やるな」
ノクスが短く言って、視線を逸らす。
「別に」
エレンは肩をすくめる。
「ただ、送っただけだよ」
「……」
ノクスは、それ以上何も言わなかった。
キリも、腕を組んだまま黙っている。
でも。
その顔が、いつもより少しだけ複雑なのを――結衣は、ちゃんと見ていた。




