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第87話 奪われた名前


 ("勇者エレクト"として生きることになった)




 エレクト。


 それは、本当の自分の名前ではない。


 それは、エレンが幼い頃の名前。


 孤児院で育ったエレンには、貧しいながらも優しいシスターや仲間達に囲まれた、幸せな暮らしがあった。


 それが突然崩れたのは、六歳の頃だったと思う。


 突如として現れた、不思議な模様。


 それは右肩にくっきりと浮かび上がって、当時子どもだったエレンには、かっこいい模様が現れたくらいにしか思えなかった。


 けれど、その模様を見たシスターは、慌てて教会を飛び出した。


 そして、戻ってきた時には、教会の制服を纏った見知らぬ大人を何人か連れてきていた。


「これは……間違いなく、聖印です」


 嫌がるエレンの服の袖をまくり、まじまじと見られる。


 ただならぬ空気が流れていることに、子どもながらにエレンは気づいていた。


「それでは……この子は……」


「えぇ。勇者に間違いありません」


 その言葉を聞いた途端、シスターはさっと顔を青ざめさせた。


「しかし、聖印は男児に現れるものであって……」


「だが、これはどう見ても聖印だ」


 何か、大人同士で揉めている。


 けれど、エレンには関係ない。


 早くこの部屋から出て、外で遊びたい。


「ねぇ、もう行っていい?」


 足をぶらぶらとさせながら言うと、鋭い大人の声が返ってきた。


「ならん。これから、私達についてきてもらう」


「いたっ……! ちょっ、離せよ!」


 強引に腕を引かれて、連れて行かれたのは、彼らが乗ってきた馬車だった。


「お、お待ちください! せめて、子ども達にお別れを……」


「人目につくわけにはいかない。諦めてくれ」


 騒動に気づいた他の子どもが、庭の片隅からこちらを見ている。


 けれど、エレンは、無理やり乗せられた馬車の扉が閉まるのを見ていることしかできなかった。


 勇者とは、過去に魔物や魔族との戦いで人間を守ってきた存在らしい。


 人間を守るために、その力を女神様から授かったのだとか。


 人類を守るために、強くならなくてはならないのだとか。


 でも、エレンにとっては、そんなことはどうでもよかった。


 ただ、あの孤児院に帰りたかった。


「勇者が女性というのはありえぬ。これから、お前はエレクトと名乗るがいい」


 名前まで奪われて、自由も奪われて。


 やらされるのは、きつい鍛錬や修行ばかり。


 ある日。


 監視の目を掻い潜って、外へと飛び出した。


 事前に手に入れた服と、世話係からくすねた銅貨を持って、自分の孤児院を探す。


 やっと辿り着く頃には、もうすっかり夜遅くになってしまっていた。


 暖かな明かりが、孤児院の窓から漏れている。


 窓の開いた部屋を見つけて、そっと忍び込む。


 疲れた体をベッドで休めていると、ガチャリと扉が開いて、同い年くらいの男の子が入ってきた。


 エレンの顔を見るなり、彼は目を丸くして詰め寄ってくる。


「お前! 一体どこ行ってたんだよ!?」


 彼は、エレンの一番の親友だった。


 普段から、よくつるんで遊んでいた仲間だ。


「シスターは、お前は里親が見つかったからって言ってて……」


「実はさ……」


 エレンが今までのことを話すと、彼は深刻そうな顔をして言った。


「じゃあ、お前……これから魔物とかと戦うのか?」


「らしいよ」


 ほんと、やってられないよね。


 エレンが笑うと、彼はエレンの腕を取った。


「逃げろよ」


「……は?」


「だって、魔物と戦うって……。俺の父ちゃんは、魔物にやられて死んだんだ」


 そんなのダメだ。


 そう言って、俯いてしまった彼の肩は少し震えていた。


「逃げるって言ってもなー。もう、くすねたお金も残ってないし。他に行き場所ないし……」


「じゃあ、ここに隠れてればいいよ。飯は俺が持ってくるから」


 その時。


 孤児院の玄関の方が騒がしいことに気づいた。


 窓から覗き込めば、馬車が何台か止まっている。


「やば……もう追いつかれた」


 やがて、扉をひとつひとつ開ける音と、シスターの止める声が響いてくる。


「お待ちください! 子ども達は眠っていて……!」


「シスター、隠し立てすれば、あなたの身も危ういのですよ」


 このままここにいても、すぐに気づかれるだろう。


 エレンはため息をついて、自分から扉を開けた。


「ここにいるよ。なんだよ、ちょっと里帰りしたぐらいで騒ぐなよ」


「……大人しくついてこい」


「はいはい」


 痛いくらいに掴まれた肩。


 エレンの小さな体では、まだ振り払うことができない。


 馬車に乗り込む直前。


 教会の人間に阻まれながら、親友だった彼が大きく叫んだ。


「俺……! 騎士団に入る! だから、待っとけよ!」


「……!」


 騎士団の仕事は、王都を守ることだけではない。


 魔物討伐の任務もある。


 エレンには、彼の言葉が。


 助けに行くからな、と聞こえた。


 また脱走されては困ると、そのまま連れて行かれたのは、王都にある教会本部だった。


 まるで要塞並みに警備が厳しく、エレンは街に出ることも、自由に歩き回ることもできなかった。


 やがて、ある程度大きくなると、今度は実戦の魔物討伐。


 ある時は、貴族のご機嫌取り。


 そんな中でエレンが感じたのは、教会の人間や貴族連中の、なんたる腐りようだった。


 自分のことにしか興味がない。


 欲しいのは、地位や名声、お金。


 飼い殺し状態のエレンにとっての楽しみは、身の回りを世話するシスター達とのやりとりだった。


 見た目が良いのは、なんとなく自分でも自覚していた。


 ちょっと距離を近づけてみたり。


 さりげなく褒めてみたり。


 そうすると、頬を染めて喜ぶ姿が、なんとも可愛らしい。


 この頃になると、魔物討伐の帰りに街へ立ち寄って、道ゆく女性を口説いてみたりもした。


 見目麗しき勇者様、なんて呼ばれ始めて。


 そのうちに、街を歩けば、エレン様ー! なんて黄色い声が飛んでくるようにもなった。


(案外、男装も悪くないかもね)


 そんな風に思い始めた矢先。


 彼を見つけたのは、本当に偶然だったと思う。


 ある魔物討伐の帰り。


 貴族の可愛らしい女性が、一人の騎士に駆け寄るのを見た。


 後で、部下達が噂をしているのが聞こえてくる。


「いいなー、隊長。襲われた馬車を助けたら、貴族のご令嬢との結婚が決まったんだろ?」


「馬鹿、お前がその場にいたって、実力不足で助けられないだろ」


 違いない、と。


 ははは、と笑う部下達の声。


 なんとなくその男を見れば、駆け寄ってきた女性に、困ったように。


 でも、嬉しそうに頬を染める姿があった。


 エレンには、その顔に見覚えがあった。


「本当に騎士団に入ってたんだ……」


 けれど。


 笑う視線の先には、自分はいない。


「……笑える」


 あんな小さい頃の約束なんて、所詮子どもの戯言だ。


「それで、やけになって酒場で酒を飲んだ後、気づいたらこっちに来てたんだよねー」


 笑えるでしょ。


 そう続けようとしたエレンの言葉は、結衣の潤んだ瞳を見て止まってしまった。


 今にも泣きそうだ。


「え、ちょ……結衣ちゃん?」


「ご、ごめん」


 ゴシゴシと目を擦り、泣かないようにしている結衣。


「ダメだって、擦ったら赤くなっちゃうでしょ?」


「うん……」


 思わず俯いてしまう結衣の姿を見て、魔王たちが結衣に構いたがる理由が、なんとなく分かった気がした。


「ほら、良い子だから」


 そっと抱き寄せて頭を撫でると、結衣はそっと体を預けるように力を抜いた。


(なんだ、この可愛い生き物)


「その……その人は、エレンのこと覚えてなかったの?」


「あー……どうだろ? 多少は覚えてたんじゃない?」


 エレンは、結衣の頭を撫でながら続ける。


「もう、結衣ちゃんが可愛すぎて、全部忘れられそう」


「ふふ……何それ」


 その頃。


 コンビニから少し離れた、小さな本屋。


 冷房の効いた店内で、四人はそれぞれ時間を潰していた。


 ページをめくる音だけが、静かに響く。


 その中で。


「……いいのか」


 ぽつりと、ノクスが口を開いた。


 手に取っていた本から、視線は外れている。


「何が?」


 近くの棚を眺めていたアイルが、気軽に返す。


「勇者と、結衣を二人きりにしている状況だ」


 短く言い切る。


 その声には、わずかに不機嫌さが滲んでいた。


「現状、最も警戒すべき対象だ」


「……まぁ、それはそうだな」


 キリが本を閉じる。


「戦闘能力を考えれば、最悪のケースも想定できる」


 淡々とした口調。


「にもかかわらず、あの距離は――」


「いやいや」


 そこで、豊がひょいと顔を上げた。


 手にしていた雑誌を軽く振る。


「大丈夫だって」


 あっけらかんとした声。


「結衣に任せとけば問題ない」


「……何を根拠に言っている」


 ノクスが、ゆっくりと視線を向ける。


「いや、なんとなく?」


「なんとなく、だと?」


「うん」


 即答だった。


「なんかあいつ、変に無理させるタイプじゃないし」


 肩をすくめる。


「結衣も、その辺ちゃんと分かってるからさ」


「……」


 ノクスは、黙る。


「それにさ」


 豊が、少しだけ笑う。


「本気で危なかったら、あんな顔してねぇよ」


「……顔?」


 キリが眉をひそめる。


「さっき見ただろ?」


 軽く顎で外の方向を示す。


「倒れそうでも、無理して笑ってたけど」


 一拍。


「結衣の前じゃ、ちょっとだけ力抜いてた」


「……」


 ノクスの視線が、わずかに揺れる。


「だから大丈夫」


 豊は、迷いなく言い切る。


「変なことにはならねぇよ」


「……理解不能だ」


 ノクスが低く呟く。


「根拠が曖昧すぎる」


「同意する」


 キリも短く返す。


「論理的裏付けがない」


「えー、そう?」


 アイルが、本を閉じながら笑う。


「でも、なんとなく分かる気するけどなぁ」


「……貴様まで」


 ノクスが顔をしかめる。


「直感って、案外バカにできないよ?」


 軽く肩をすくめる。


「それに」


 少しだけ楽しそうに続ける。


「今あの中で一番踏み込んでるの、結衣ちゃんだと思うし」


「……は?」


 ノクスとキリの声が、揃う。


「気づいてないの?」


 アイルが首を傾げる。


「無自覚で一番距離詰めるタイプじゃん」


「……」


 一瞬、沈黙。


 ノクスが、視線を本に戻す。


 ……が、ページはめくられない。


(……確かに)


 ほんのわずかに、思考が揺れる。


 だが。


 それでも。


「……気に入らん」


 ぽつりと漏れる。


「え、そこ?」


 豊が思わず吹き出す。


「何がだよ」


「距離が近すぎる」


 即答だった。


「……あー」


 豊が納得したように頷く。


「それかぁ」


「それだ」


 キリも真顔で頷く。


「明らかに過剰だ」


「いや、そこかよ」


 豊が笑う。


 アイルも、くすっと肩を揺らした。


 その中で。


 ノクスだけは、笑わない。


 ただ。


 わずかに眉間に皺を寄せたまま。


 閉じた本の上に、指を置いたまま動かなかった。

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