第78話 役割のない勇者
(勇者がいない世界で、勇者は自分の価値を見失った)
がらり、と。
玄関の戸が開く音がした。
「ただいまー」
聞き慣れた声。
「あ、お兄ちゃん」
結衣が振り向く。
豊が、少しだけ肩を落としたまま戻ってきた。
手には、空の配達箱。
「おかえり。早かったね」
「うん……」
歯切れの悪い返事。
そのまま、靴を脱ぎながらぼそりと呟く。
「……なんかさ」
「最近、注文減ってきてないか?」
その一言で。
空気が、少しだけ変わった。
「……え?」
結衣の手が止まる。
「いや、ほら」
豊は困ったように頭をかいた。
「いつも頼んでくれてたとこ、何件か連絡来てなくてさ」
「……」
思い当たる節は、ある。
(……値上げ)
あのときの判断。
間違ってはいなかった。
分かってる。
分かってる、けど——
「まあ、気のせいならいいんだけど」
豊は、あっけらかんと言う。
「またそのうち戻るだろ」
軽い。
あまりにも軽い。
けれど。
(……そうだよね)
結衣は、ぐっと息を飲み込んだ。
顔には出さない。
出せない。
「……うん」
小さく頷く。
「ちょっと、確認してみる」
そう言って、視線を落とす。
その様子を——エレンは、黙って見ていた。
帳簿を見ながら、得意先の過去の注文を辿っていく。
ページをめくるたびに、違和感がはっきりしていく。
いつもの感覚で言えば——とっくに、注文が入っている時期は過ぎていた。
(……やっぱり)
赤字を出していた大口の注文は、この前切れたばかりだ。
その分、スーパーへの供給がなんとか追いつくかもしれない。
けれど——
「……確かに、注文入ってない」
ぽつり、と結衣が呟いた。
その声は、ほんの少しだけ沈んでいる。
食事を終えた豊が、後ろから近づいてくる。
「お兄ちゃん、やっぱり減ってるかも」
結衣は振り返らないまま言う。
「いつもなら、とっくに注文入ってるし……」
肩が、わずかに落ちる。
「やっぱり、この前の値上げが原因かな……」
小さく、ため息。
その肩を。
ぽん、と軽く叩く手があった。
「大丈夫だって」
豊は、いつも通りの調子で笑う。
「ちゃんと考えてやったことだし、なんとかなるって」
根拠のない、軽い言葉。
そこに悪意は一切ない。
ただ——何も疑っていないだけ。
その様子を。
少し離れた場所から、エレンはじっと見ていた。
口元は、いつも通り緩く笑っている。
けれど。
その目だけが、笑っていない。
(……ああいうの)
心の中で、ぽつりと呟く。
(嫌いなんだよね)
(根拠のない“大丈夫”)
(全部うまくいくって、疑わない顔)
ふ、と鼻で笑う。
(世界はそんなに優しくない)
(何もかもが、自分の味方で——悪い人間なんていない、なんて)
一瞬、目が細くなる。
(……吐き気がする)
軽く視線を逸らす。
興味を失ったように。
けれど。
すぐに、また視線が戻る。
今度は——結衣へ。
帳簿を見つめたまま、何かを考えている横顔。
さっきの会話。
あのときの言葉。
『ちゃんと考えてくれてる』
思い出す。
押しつけないのに、ちゃんと見ている。
無理してないと言いながら——多分、一番抱えているのはこの子だ。
エレンの視線が、少しだけ動いた。
帳簿と結衣の横顔を、交互に見る。
(……ああ)
小さく、息を吐く。
(こういうタイプ)
一拍。
(全部、自分で抱える)
誰にも預けず。
誰にも見せず。
気づいたときには——
(勝手に潰れるやつ)
目が、わずかに細くなる。
(……一番、タチが悪い)
ぽつりと、心の中で呟く。
逃げ場もなく。
周りにも頼らず。
それでいて——
(周りは、放っておけなくなる)
厄介だ、と。
本気で思う。
(面倒くさいな)
心の中で、もう一度呟く。
視線を外す。
関わらない方が楽だと、分かっている顔。
けれど。
ほんの一瞬だけ、また戻る。
(……危うい)
短く、思う。
それ以上は、言葉にしない。
その代わりに。
わずかに、口元が緩んだ。
(……まあ)
(嫌いじゃないけど)
「外、見てみたいな」
ぽつりと、エレンが呟いた。
「外?」
「うん。この世界」
一拍。
「どうせなら、ちゃんと見ておきたくてさ」
軽い調子。
けれど、その目はほんの少しだけ真剣だった。
さっきまで視線を逸らしていた人間とは、少し違う顔をしていた。
「……配達、行くけど」
結衣が言う。
「それでもいいなら」
「むしろ、それがいい」
にこり、と笑う。
「日常ってやつ、見てみたいし」
「……」
そのやり取りを。
少し離れた場所から、ノクスが無言で見ていた。
そして。
「……私も行く」
「え?」
「いや、いいって。別に」
「行く」
即答だった。
そのまま、すっと姿が縮む。
「ちょっとノクス!?」
「合理的判断だ」
「どこが!?」
聞く耳を持たず、小さくなったノクスは結衣の肩へと飛び乗った。
「……監視だな」
キリがぼそっと呟く。
「違う」
「違わないだろ」
アイルがくすくす笑う。
「行ってらっしゃーい」
エンジン音が、静かに響く。
車がゆっくりと走り出す。
「……これ、面白いね」
エレンが窓の外を眺めながら言う。
「速いし、安定してるし」
一拍。
「馬いらないじゃん」
「そうだね」
結衣が苦笑する。
その横で。
小さなノクスが腕を組んでいた。
無言。
ただ、じっとエレンを見ている。
「……」
エレンがちらりと視線を落とす。
「ねえ」
「なんだ」
「本当に魔王なんだよね?」
「そうだ、と言っている」
即答。
「ふーん」
一拍。
「その姿だとさ」
口元がわずかに緩む。
「威厳っていうより、可愛さが勝つよね」
「……」
「結衣!?」
漏れてきた笑い声に、ノクスが振り向く。
「え、だって……ちょっと可愛いし……」
「可愛いとは何だ」
「褒めてるよ?」
「褒めていない」
即否定。
そのやり取りに、エレンがくすりと笑った。
(……なんだこれ)
ほんの少しだけ、力が抜ける。
さっきまで胸の奥に渦巻いていたものが、少しだけ遠のいた気がした。
配達先でのやり取りを、車の中からぼんやりと眺める。
頭を下げる結衣。
短いやり取り。
受け取られる荷物。
何気ない日常。
それを見ながら——エレンは、ふと考えていた。
(……静かだな)
魔物のいない世界。
脅威もない。
争いも、少ない。
技術は発達していて。
誰も——
(勇者様、なんて)
呼ばない。
頼らない。
期待もしない。
(……こんなにも)
穏やかで。
こんなにも、普通なのか。
(……じゃあ)
ふと、思う。
(自分は、なんだ)
今、自分は何をしている?
何のために、ここにいる?
(こんな世界を)
望んでいたはずなのに。
なのに——
(……価値が、ない)
役割がない。
必要とされない。
それは、自由のはずなのに。
胸の奥が、少しだけ重い。
指先が、膝の上で静かに握られた。
(これじゃあ)
何年も。
何年も耐えて。
騙して。
偽ってきた自分が——
(全部、無駄だったみたいじゃないか)
思考が、少しだけ沈む。
車窓の景色が流れていく。
穏やかで、平和で。
その眩しさが、今だけは少し——
そのとき。
「……エレン?」
不意に、声がした。
顔を上げると——すぐ近くに、結衣の顔があった。
「大丈夫? 気分悪い?」
心配そうに、覗き込んでいる。
「車、酔っちゃったかな……」
「……」
一瞬。
言葉が出なかった。
こんな顔で見てくる人間が、いるとは思っていなかった。
けれど。
すぐに、口元が動く。
自然に。
いつも通りに。
「ごめんね」
にこり、と笑う。
「ちょっと、ぼーっとしてただけ」
「そう?」
「うん」
一歩、距離を詰める。
「心配してくれたの?」
わざと、覗き込むように。
顔を近づける。
いつも通り。
こうすれば——大抵の女の子は、照れる。
喜ぶ。
だから。
(……)
そうなるはずだった。
「本当に?」
結衣の目は、逸れなかった。
真っ直ぐに、見てくる。
試すようでもなく。
ただ、確かめるように。
その目の前で、エレンの笑顔が——ほんの一瞬だけ、止まった。
「ノクス」
すっと、顔を離す。
「ちょっと、一旦家に戻ろう」
「……」
ノクスは、ちらりとエレンを見たあと。
「……好きに決めればいい」
短く答えた。
車の中に、少しだけ静かな空気が流れる。
その中で。
(……やっぱり)
エレンは、わずかに目を細めた。
(この子は)
(普通じゃないな)
笑顔が止まった、あの一瞬のことを——
エレンは、しばらく忘れられなかった。




