第77話 その合理、感情入りです
(合理で語る魔王の声に、ほんの少しだけ感情が混じった)
皿を拭き終えたエレンが、ふう、と小さく息を吐いた。
「……ほんと、タイミング悪いよね」
「え?」
結衣が振り向く。
「ついこの前、魔王討伐を命じられたばっかりだったんだよ」
さらっと言う。
けれど、その内容は全然さらっとしていない。
「魔王討伐って……」
「そうそう。でさ」
エレンは肩をすくめる。
「そもそも魔族領に行くこと自体が、かなり無謀なんだよね」
「危険なの?」
「危険どころじゃないよ」
即答だった。
「海路が一番近いのに、その海がもうダメ」
「ダメ?」
「魔素の嵐みたいなのが渦巻いててさ。船なんて出したら一瞬で終わる」
「えぇ……」
思わず声が漏れる。
「じゃあ陸路は?」
「それも地獄」
間髪入れずに返ってきた。
「でっかい山を二つ三つ越えなきゃいけないし、そこがまた強い魔物だらけ」
一拍。
「補給できる場所もなければ、休める拠点もない」
にこり、と笑う。
「もはや詰みだよね」
「……」
結衣は、苦笑いしかできなかった。
(それ、普通に死んでこいって言ってない……?)
「こんな命令、誰が受けるかっての」
ふん、と鼻を鳴らすエレン。
その態度は軽いけれど、言っていることは重い。
怒っているのか、呆れているのか、その両方なのか——笑顔の奥がよく見えない。
「……じゃあ、人と魔族って」
結衣は手を拭きながら、ぽつりと呟く。
「全く交流とかしてないんだ……」
そのままリビングへ戻る。
ちらりと、ソファに視線を向ける。
「エルフと人も交流してないの?」
ぼんやりテレビを見ていたアイルに問いかけると。
「あー……」
少しだけ困ったような声を漏らした。
「そもそも、人がエルフの住む場所に来るのが、すごく難しくてねー。昔は多少あったみたいだけど、今はほとんどないかな」
「そうなんだ……」
結衣は少しだけ首を傾げる。
「あれ、でもアイルとキリは人間のところでも活動してたって言ってなかった?」
「まあね」
アイルが軽く笑う。
「魔族領にも行ったことはあるよ」
その横で。
「……両方行けないことはないが、色々大変だ」
キリが、遠い目で呟いた。
あまり思い出したくなさそうな顔をしている。
「ノクスは?」
結衣が視線を向ける。
「人間の住む場所には行ったことないの?」
「……視察程度なら」
短い答え。
それ以上は語らない。
(あれ……?)
結衣は、ふと引っかかった。
(魔族やエルフは行けるのに、人間は行けない……?)
その違和感に、エレンが口を開いた。
「ねえ」
にやり、と笑う。
「その海、魔王ならどうにかできるんじゃないの?」
一拍。
「それとも、天下の魔王様でもどうにもならない代物?」
挑発。
明らかに、わざとだ。
視線がノクスに向かって一直線に刺さっている。
その言葉に——ノクスは、ほんの少しだけ間を置いて。
「……そもそも」
ぽつりと呟いた。
「あれは、私が設置した」
一拍。
「対人間用の防護策だ」
「……は?」
間の抜けた声が出たのは、結衣だったのか、エレンだったのか。
「何百年と不毛な争いが続いていた」
ノクスは、淡々と続ける。
「特に、先代の魔王の時代は酷かった」
その声に、感情はほとんど乗っていない。
ただ、事実だけを並べるように。
語り口はどこまでも穏やかなのに、その内容が持つ重さだけが、じわりと沈んでくる。
「そこで私が玉座を奪い、魔族領内の平定を優先した」
さらっと言う。
「組織改革、ってやつだ」
「だが、内部が安定しても」
一拍。
「人間側の侵攻と、勇者の投入は止まらなかった。小競り合いが頻発し、非効率だった」
その一言に、すべてが詰まっている。
「……だから」
ノクスは視線をわずかに落とす。
「周辺の魔素を集め、術式で嵐を形成した。海路を断ち、陸路防衛に集中するためだ」
静かに言い切る。
「結果として、ここ百年ほどは安定している」
沈黙。
「……なんていうか」
結衣がぽつりと呟く。
「ノクスらしいね」
「魔族は資源が乏しい」
即答だった。
「戦闘に特化した人材は多いが、それを維持する余力は限られている。だからこそ、最も効率の良い方法を取った」
しれっと言う。
その横で。
ぶるぶると、肩を震わせている影があった。
「……お、お前が原因か……!!」
エレンだった。
顔を引きつらせながら、ノクスを指さす。
さっきまでの余裕が、完全に吹き飛んでいた。
「人間側もこれで諦めると思っていたのだが」
ノクスは、特に気にした様子もなく続ける。
「予想以上に粘る」
「お前のせいで、こっちは……!!」
言葉にならない怒り。
長年の積み重ねが、一気に表に出てきている気がした。
その様子を見て。
「……あー」
アイルが、楽しそうに笑う。
「それは怒るよね」
「当たり前だろ……!!」
エレンの声が、珍しく本気で荒れた。
リビングの空気が、また少しだけざわつく。
その中心で。
(……なんか、とんでもない話になってる)
結衣は、そっと額に手を当てた。
「それで?」
エレンが、わずかに首を傾ける。
口元には、余裕の笑み。
さっきの怒りを、もう引っ込めていた。
切り替えが早い。
「魔王様は、目の前に勇者がいても何もしないわけ?」
一歩、距離を詰める。
「今ならさ」
一拍。
「弱ってるあんたを、倒せるかもしれない存在がここにいるのに?」
空気が、ぴり、と張る。
けれど——
「……」
ノクスは、非常に面倒くさそうな表情を浮かべただけだった。
「もし敵対行動を取るというのなら、相手にはなるが」
一拍。
「正直、面倒だ」
「ちょ、ノクス!?」
結衣が思わず声を上げる。
「いくらなんでも正直すぎない!?」
「事実だ」
即答だった。
「大体、なぜ戦う必要がある」
淡々と続ける。
「魔族は好戦的な者が多いが、無駄な争いはコストがかかる。時間も、資源も浪費するだけだ」
一切の迷いがない。
「それよりも」
視線が、ほんの一瞬だけ店内へ向く。
「資源の調達と環境整備に時間を費やす方が、遥かに現実的だ」
「……環境整備って」
結衣が小さく呟く。
「米屋で言うことじゃないでしょ」
「言う」
ぴしゃりと返される。
「今の最優先事項は」
ノクスは一度、言葉を区切った。
「この稲宮米店の発展に貢献することだ」
一拍。
「利益の出ない戦闘は、非効率的でしかない」
きっぱりと言い切る。
そのまま——ゆっくりと、視線をエレンへ向けた。
「……しかし」
空気が、変わる。
温度が、すっと落ちた気がした。
さっきまでとは別の何かが、ノクスの目の奥に灯っている。
「万が一にも」
低く、静かな声。
「結衣や豊に手を出してみろ」
一拍。
「その時は、容赦しない」
鋭い眼光が、真っ直ぐにエレンを射抜く。
さっきまでの“合理”とは別の何か。
剥き出しの、それだけは絶対に譲らないという意志が、確かにそこにあった。
(……こわ)
思わず、結衣の肩がわずかに震える。
その緊張を——
「僕たちはー?」
のんきな声が、あっさりと壊した。
アイルだった。
「……」
一瞬の間。
「お前たちは自分で身を守れ」
ノクスは、何事もなかったかのように言い放つ。
「えっ、扱い雑じゃない?」
アイルが目を丸くする。
「ねぇ、キリ?」
「……仕方ないだろ」
キリは、肩をすくめた。
「雇用主だしな」
「いやそれ理由になる?」
「なる。優先順位の問題だ」
「現実的すぎるんだよなぁ……」
アイルが苦笑する。
その横で。
「……ふーん」
エレンが、小さく笑った。
さっきまでの挑発とは違う、少しだけ含みのある笑い方。
「なるほどね」
一拍。
「合理主義者、ってわけだ」
軽く肩をすくめる。
ノクスを見たまま——ぽつりと、呟く。
「……それにしては」
ほんの少しだけ、目が細くなる。
「感情、入ってる気もするけどね」
「……」
ノクスは何も言わない。
ただ、視線を外さない。
空気が、わずかに揺れる。
そのまま——ふっと、エレンの力が抜けた。
「……やめた」
軽く息を吐く。
「なんか馬鹿らしくなってきた」
一拍。
「魔王をここで倒したって、1ミリも利益出ないし」
あっさりと言い切る。
そして。
ちらり、と。
視線が結衣に向く。
「それに——」
にこり、と笑う。
「可愛い子の前で暴力っていうのも、よくないしね」
「……っ」
結衣の心臓が、どくん、と跳ねた。
(な、なに今の……)
さらっと言われたのに。
逃げ場がない。
妙に、残る。
その変化を——見逃さなかった二人がいる。
「……」
ノクスの視線が、わずかに鋭くなる。
眉間に、僅かな皺が寄った。
「……はぁ」
キリが、こめかみを押さえた。
露骨に、不機嫌。
こめかみを押さえる指先に、少しだけ力が入っている。
「……やはり」
ノクスが、ぽつりと呟く。
「消した方が、今後のためか」
「ちょっとノクス!?」
即座に結衣がツッコむ。
「発想が物騒すぎるから!!」
「合理的な判断だ」
「全然合理的じゃないでしょ!?」
「いや、長期的リスクを考慮すれば——」
「やめて!? 具体的に説明しないで!?」
ぴりついていた空気が、一気に崩れる。
その様子を見て。
「……ふふ」
エレンが、楽しそうに笑った。
さっきまでより、ほんの少しだけ柔らかい声で。
「やっぱり面白いね、ここ」
一拍。
その視線が、部屋全体を緩やかになぞる。
ノクスも。
キリも。
アイルも。
結衣も。
ひと通り見てから——エレンは、静かに目を細めた。
思ったよりも、居心地がいい。
そんなことを、思っているような顔だった。




