第76話 壁の向こう側
(距離は近いのに、心は遠い。その壁が、少しだけ動いた)
食事が終わって。
「ごちそうさま」と声が重なる。
けれど、その後に続く空気は——まったく整っていなかった。
なんとも言えない、微妙な沈黙。
ぴり、と張りつめているわけでもないのに、妙に落ち着かない。
(……無理)
結衣は、すっと立ち上がった。
「私、洗い物やるね」
誰の返事も待たずに、キッチンへ逃げるように向かう。
——別に。
決して、リビングの空気が悪くて逃げてきたわけではない。
決して。
蛇口をひねる。
水の音が、やけに心地いい。
皿に手を伸ばして、スポンジに洗剤をつける。
(……はぁ)
小さく息を吐く。
やっと、少しだけ落ち着いた。
なんで、あんなに険悪なんだろう。
ノクスとエレン。
キリも、いつもより刺々しい。
やっぱり、勇者と魔王だから——?
そう思ってみるけれど。
(……なんか違う気もする)
少なくとも、直接戦ってきたような感じではない。
もっとこう。
根本のところで、噛み合っていないような。
それに。
(エレンって……)
思い出す。
あの視線。
笑っているのに、どこか踏み込ませない。
壁がある、というより。
最初から、そこに“入る場所がない”みたいな。
(……ちょっと苦手かも)
そう思って、少しだけ眉を寄せる。
なのに、距離はやたらと近い。
平気で人の領域に踏み込んでくる。
触れる距離まで来るのに——それ以上は、絶対に入らせない。
(……なんなの、あれ)
ちぐはぐすぎて、理解が追いつかない。
悩んだときは、とにかく動く。
働く。
それが一番、楽だって知っている。
考えなくて済むから。
けれど、今日はバイトは休みだ。
このまま一日、店にいることになる。
(……どうしよ)
皿を流しながら、小さくため息をつく。
ちらり、とリビングに視線を向ける。
テレビはつけっぱなしで、明るい声が流れている。
楽しそうなトーク。
笑い声。
けれど。
その前に座っている三人の空気は——まったく笑っていなかった。
(……なにこの温度差)
見ているだけで、じわじわと精神が削られる。
思わず、そっと視線を戻した。
ノクスは、放っておいても勝手に動くタイプだ。
興味を持てば、自分で調べて、試して、理解する。
アイルもキリも、基本は同じ。
むしろ、三人揃うと手に負えない。
ついていくこっちが大変なくらいだ。
けれど。
(エレンは……)
少し違う。
(……警戒してる?)
それとも。
最初から、そういう人なのか。
そのとき。
「手伝おうか」
不意に、後ろから声がした。
振り返る前に、気配がすぐ近くまで来ていた。
エレンだった。
「もうちょっとで終わるから、平気だよ」
そう言うと、エレンは近くにあった布巾をひょいと手に取った。
洗い上げた皿を、手際よく拭いていく。
「じゃあ、二人でやった方が早く終わるね」
にこり、と笑う。
その笑顔には嫌味なんて一切なくて、むしろキラキラと何か発光しているんじゃないかと思うくらい眩しい。
「……ありがとう」
思わずそう言うと、エレンは軽く肩をすくめた。
「どういたしまして」
しばらくの間、水音と、皿が触れ合う小さな音だけが続く。
さっきまでのリビングの空気が嘘みたいに、ここだけは静かだった。
その静けさを破るように、エレンがふと口を開く。
「結衣ちゃん、本当に無理してない?」
「え?」
手を止めて振り向く。
エレンの視線は、少しだけリビングの方へ向いていた。
「ほら、あいつら……」
その先では、ノクスたちが小声で何か話している。
「ああ、ノクスたち?」
結衣は少しだけ首を傾げた。
「特に無理してることはないけど」
「そう?」
「うん」
頷く。
「むしろ、こっちが助けられてるくらいだし」
スポンジを握り直しながら、続ける。
「米屋の帳簿も、ノクスが見てくれなかったらどうなってたか分からないし。バイト先も、今は前よりずっと働きやすくなったしね」
一拍。
「何より、みんなちゃんと考えてくれてるから」
自然と、少しだけ笑みがこぼれる。
「どうすれば良くなるか、ちゃんと向き合ってくれてる」
だから。
「すごく感謝してるの」
そう言って笑うと。
エレンは、ほんの一瞬だけ何かを言いかけて——
でも、それを飲み込むようにして視線を逸らした。
「……そう」
小さく、呟く。
その声は、さっきの軽さとは少しだけ違う温度をしていた。
空気が、わずかに変わる。
けれど結衣は、その違和感を深く考える前に、ふと思い出したように口を開いた。
「エレンこそ」
「ん?」
「急に知らない世界に来ちゃって、平気なの?」
水を流しながら尋ねる。
エレンは一瞬だけ目を瞬かせてから、すぐにいつもの調子で笑った。
「平気平気。全然大丈夫」
一拍。
「むしろ、戻りたくないくらい」
「……え?」
思わず手が止まる。
そんな答えが返ってくるとは思っていなかった。
「そんなに勇者って大変、なの?」
思わず聞き返すと。
エレンの目が、ぱっと開いた。
次の瞬間。
放り出された布巾が、ぱさりと台に落ちる。
そして。
「聞いてくれる!? 結衣ちゃん!!」
ぐい、と肩を掴まれた。
「う、うん。聞くよ」
勢いに押されながら頷くと、エレンはぱっと顔を明るくする。
「いやもうさ、ほんと大変なんだよ」
一歩引いて、大げさに肩をすくめる。
「勇者って言えば聞こえはいいけど、実際はただの便利屋だからね」
「便利屋……?」
「そう。討伐だの護衛だの、挙句の果てには政治の道具にされたりさ」
軽い口調。
けれど、その奥にあるものは、少しだけ重い。
言葉と声のトーンが、微妙に噛み合っていない。
「“世界のため”って言えば、何でも通ると思ってるんだよ、あいつら」
ふ、と笑う。
さっきまでのキラキラした笑顔とは、ほんの少しだけ違う笑い方だった。
「断れば、“責任放棄だ”って顔されるし」
「……」
結衣は、言葉を返せなかった。
「だからさ」
エレンは肩をすくめる。
「こういうとこ、楽でいいよね」
一拍。
「誰も“勇者だから”って何か押し付けてこないし」
さらっと言う。
まるで軽い話みたいに。
でも——どこか、軽くない。
結衣の手が、皿の上で少しだけ止まった。
「……でも」
ゆっくり口を開いた。
「それって、エレンがちゃんとやってきたから、任されてたんじゃないの?」
ぴたり、とエレンの動きが止まる。
「頼られてたってことでしょ?」
一歩踏み込む。
「それって、すごいことだと思うけど」
エレンの目が、わずかに細くなる。
ほんの一瞬。
空気が変わった。
「……優しいね」
ぽつり、と呟く。
その声は、さっきより少しだけ低い。
「そういう言い方、できるの」
「え?」
「普通は、“大変そう”で終わるのに」
じっと、結衣を見る。
その視線は——さっき感じた“踏み込ませない感じ”より、少しだけ近い。
壁が、ほんの数センチだけ、後ろに引いた気がした。
「……結衣ちゃんってさ」
「なに?」
「ちゃんと見てるよね」
「え?」
意味が分からず、首を傾げる。
エレンはふっと笑った。
今度は、いつもの軽い笑い方。
「ううん、なんでもない」
布巾を拾い上げて、また皿を拭き始める。
その動作は、さっきと同じように手際よくて。
でも、どこか違う。
さっきより少しだけ、力が抜けている気がした。
そのまま、ぽつりと。
「……いいね、そういうの」
ほとんど聞こえないくらいの声で、呟いた。




