第72話 米と引き換えに勇者が来た
(その日、炊飯器から出てきたのは——魔王ではなかった)
「お兄ちゃん、一体どうなってるの」
「いや、米が炊けたと思ったら……」
「嘘でしょ」
一拍。
「……今日、魚沼じゃないのに?」
どうしよう。
ついに、米を炊くたびに召喚されるようになってしまったのだろうか。
そんな別方向の不安がよぎる。
その横で。
ノクスの視線は、鋭く目の前の人物を捉えていた。
「お前は一体誰だ。……人間のようだが」
「これはこれは。偉大なる魔王様にご挨拶が遅れました」
わずかに、口元だけが笑う。
「僕は――勇者エレクト、と申します」
おどけたように頭を下げる。
けれど、その目だけが笑っていなかった。
(……なんか、怖い)
結衣は、そう思った。
笑顔の形をしているのに、どこかが空洞のように冷たい。
「勇者……まだそんな馬鹿げたことをやっているとはな」
ノクスの声が低く落ちる。
勇者の手が、ゆっくりと腰の剣にかかる。
「馬鹿げた、ねぇ? それは否定しないけど」
にやりと笑う。
「こっちも仕事なんでね」
空気が、張りつめる。
ノクスが一歩前に出る。
アイルとキリも、わずかに身構える。
――その瞬間。
「……ちょっと」
ぐい、と。
結衣がノクスを押しのけた。
「おい、結衣!」
そのままツカツカと歩み寄り、勇者の腕を掴む。
「すみませんが!」
一拍。
「ここ、土足禁止です!!」
「……は?」
「床に泥ついてるんですけど!?」
結衣はしゃがみ込み、床を指さす。
「誰が掃除すると思ってるんですか!」
「あ、いや」
「……あっ」
カーペットに視線が移る。
「ちょっと!! これも付いてる!!」
振り返る。
「泥汚れ落とすの大変なの知ってます!?」
「い、いや……」
「お兄ちゃん!!」
「はい!?」
「なんでそのままにしたの!!」
「いや、現れたのついさっきだし!」
「言い訳!! 今すぐ雑巾とドライヤー!!」
「はい!!」
慌てて洗面所に走っていく豊。
結衣はその場にしゃがみ込み、床を指でなぞる。
「……こんなに傷つけちゃって……」
小さく息を吐く。
指先が、傷の深さを確かめるように動く。
「今度ホームセンター行かなきゃ……」
その様子を見て。
アイルが、堪えきれないように吹き出した。
「……あの。なんか、ごめんね?」
勇者、エレクトがすまなそうに結衣を見ている。
さっきまでの張りつめた空気は――どこにもなかった。
リビングの中央。
甲冑姿の勇者は、きっちりと正座させられていた。
「……だから、ここは靴を脱ぐ文化で」
「うん」
「床は大事に使う場所で」
「うん」
「汚したら、ちゃんと掃除する」
「……うん」
妙に素直だ。
というか。
(……なんで正座してるんだろ)
さっきまで剣に手をかけていた人物と同一とは思えない。
結衣は腕を組みながら、じっとその姿を見下ろした。
そして、ふと。
(……なんか)
引っかかる。
この光景。
この空気。
この“とりあえず正座させて話す”流れ。
(……あ)
思い出す。
(ノクスが最初に来た時も、こんな感じだった気がする)
炊飯器から出てきて。
魚沼産を食べて。
そして、なぜか正座していた。
――あの時と、似ている。
「……で?」
結衣は、改めて口を開く。
「結局、どういうことなの」
「いや、それがさ」
豊が困ったように頭をかく。
「気づいたら、いた」
「その説明、さっきも聞いた」
「ほんとなんだって!」
情けない声を上げる。
「で、本人に聞いたら」
ちら、と視線を向ける。
「やっぱり同じこと言うんだよな」
「……同じって?」
結衣が眉をひそめる。
視線が、自然と正座している勇者に向かう。
エレクトは、少しだけ肩をすくめた。
「気づいたら、ここにいた」
あっさりと言う。
「直前までいた場所とは、明らかに違う」
一拍。
「状況的に、転移……あるいは召喚に近いものだと思っている」
「……」
結衣は、無言で立ち上がった。
そのまま、くるりと踵を返す。
「え、どこ行くの?」
「ちょっと確認」
短く答えて、キッチンへ向かう。
炊飯器の前に立つ。
ほんの一瞬だけ、躊躇ってから――蓋を開けた。
中を、覗き込む。
「……」
沈黙。
そして。
「……あぁ」
思わず、声が漏れる。
空っぽだった。
さっきまで、確かに米と水を入れたはずなのに。
影も形も、残っていない。
蓋を持つ手が、一瞬だけ固まった。
振り返る。
「お兄ちゃん」
「お、おう」
「米、どこいった?」
「いや俺に聞くなよ!?」
「いや炊いたでしょ!?」
「炊いたよ!? ちゃんとスイッチ押したよな!?」
「じゃあなんでないの!?」
「知らねぇよ!?」
一拍。
結衣は、ゆっくりと炊飯器を見下ろした。
(……え、ちょっと待って)
嫌な予感が、じわじわと広がる。
(もしかして)
ゆっくり、顔を上げる。
リビングの方へ。
正座している人物を見る。
(……これ)
一拍。
(米と引き換えに、人呼んでない?)
思わず、口に出た。
「ついに毎回召喚されるやつになったらどうすんの」
「やめてそれ」
軽く頭を抱える。
豊の顔が、本気で青くなっていた。
その横で。
「……」
ノクスだけが、笑っていなかった。
視線は、一直線に勇者を捉えている。
観察するように。
測るように。
何かを、静かに計算するように。
「……勇者、か」
低く、呟いた。
空気が、わずかに変わる。
その一言で、さっきまでの軽さが、ほんの少しだけ沈んだ。
エレクトの口元が、わずかに歪む。
笑みとも、それ以外とも取れる、曖昧な形に。
二人の視線が、空中でぶつかる。
言葉はない。
でも――何かが、すでに始まっていた。




