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第71話 魔王を知る者


 (「魔王」その一言で、日常は終わった)



 翌日。


 店内に響く精米機の音は、いつもと同じはずなのに、どこか軽く感じた。


 シャッターを開けて、朝の空気を吸い込む。


 昨日のことが、頭のどこかにずっと残っている。


(……採択、か)


 まだ現実感は薄い。


 でも、確実に何かが前に進んだ感触だけはあった。


「おはよー」


 奥から豊の声が飛んでくる。


「おはよう」


 エプロンを結びながら返すと、豊がいつもの調子で米袋を担いでいた。


「お兄ちゃんは機材、何入れるか知ってるの?」


 結衣は、ふと思い出したように聞いた。


 補助金が通った以上、次は具体的な導入の話になるはずだ。


 でも、自分はそこまで詳しく聞けていない。


 豊は一瞬、にやっと笑った。


「聞いて驚け」


 わざとらしく間を取る。


「ついに、うちでも無洗米ができるようになるぞ!」


「え」


 結衣の目が、ぱちりと開く。


「なんちゃって無洗米機買うの?」


「違う違う」


 豊が手を振る。


「もうちょいちゃんとしたやつだって。業務でも使えるレベルの」


「へぇ……」


 思わず声が漏れる。


 無洗米。


 それは単なる加工方法じゃない。


 飲食店や業務用の需要では、かなり大きな意味を持つ。


(……確かに)


 頭の中で、いくつかの顧客の顔が浮かぶ。


 水の使用量。

 手間。

 仕込み時間。


 そういう“現場の効率”を考えると、無洗米は明確な価値になる。


「この前さ、見積もりも取ってたろ」


 豊が言う。


「あれ、ほとんどそれ用だって」


 結衣は少しだけ目を細めた。


 ――見えないところで、ちゃんと繋がっている。


 補助金の申請。

 書類の山。

 あの数週間の“戦い直し”。


 全部が、ここに繋がっている。


「……そっか」


 小さく呟く。


 言葉はそれだけだったけれど、胸の奥がじんわりと温かくなった。


「ま、すぐってわけじゃねぇけどな」


 豊が肩をすくめる。


「準備もあるし」


「うん。でも、大きいね」


 素直にそう思った。


“できること”が増える。


 それは、そのまま“選ばれる理由”になる。


 少しだけ考えてから、結衣は顔を上げた。


「じゃあさ」


 一拍。


「今日はちょっとくらい、いいもの食べてもいいんじゃない?」


 豊が、きょとんとした顔をする。


「珍しいこと言うな」


「たまにはいいでしょ」


「まぁ……いいけど」


 少しだけ照れたように言うと、豊は小さく笑った。


 ご飯を炊く準備をしようと、米袋に手をかけた結衣の手が止まる。


 ――最初は、これだった。


 そこから、いろいろあって。


 気づけば、二人増えていた。


「……魚沼産はやめておこう。今日はこっち」


 代わりに、最近スーパーで試しているブレンド米を取り出す。


 味の確認も兼ねて、今日はこっちを炊こう。


 おかずを少し豪華にすれば、十分“お祝い”になる。


 炊飯器に米と水を入れ、蓋を閉める。


「……」


 ほんの一瞬だけ、手が止まる。


 すぐに、何でもないように息を吐いて。


 ほんの少しだけ身構えながら、炊飯ボタンを押した。


 ピッ。


 静かな電子音が、やけに大きく響く。


 一秒。


 二秒。


 何も起こらない。


 湯気も、光も。


 異世界の気配も、ない。


「……よし」


 結衣は小さく頷いて立ち上がった。


「何確認してたの?」


「してない」


「してたよねぇ」


「してないってば」


 アイルがけらけらと笑う。


 その声が、台所に弾けた。


 夕方。


 閉店準備を終えて。


「じゃあ、買い出し行ってくるね」


 結衣が言う。


「おう、気をつけてな」


 豊は、いつも通りの調子で手を振った。


 エコバッグを持って外に出ると、当然のように三人がついてくる。


「俺も行く」


 ノクス。


「僕もー」


 アイル。


「……競合調査になる」


 キリ。


「いや、全員来るの?」


 思わず聞き返す。


 誰も引く気がない顔をしている。


「……まあ、いいけど」


 諦め半分で歩き出す。


 向かったのは、最近気になっていた少し大きめのスーパーだった。


 自動ドアを抜けた瞬間、空気が変わる。


 明るい照明。

 広い通路。

 見慣れない棚の配置。


「……へぇ」


 キリの視線が、すでに棚を追っている。


「この売り方、完全に単価引き上げ狙いだな」


「導線が直線的すぎる」


 ノクスが続ける。


「奥まで歩かせる設計だが、途中での引き止めが弱い」


「このPOP、惜しいなぁ」


 アイルは別の方向を見ている。


「写真いいのに、情報が散ってる」


「……みんなさ」


 結衣は、少し呆れたように言った。


「買い物でも仕事するのやめてくれる?」


 三人が一瞬だけこちらを見る。


「習慣だ」


「職業病だねぇ」


「合理的な行動だろ」


「……はいはい」


 軽く流しながら、結衣は売り場へ向かった。


「で、今日何か食べたいものある?」


「肉だ」


「魚がいい」


「僕はデザートが欲しい」


 一拍。


「……何も参考にならない意見をありがとう」


 ぴしゃりと返すと、アイルが笑った。


 そんなやり取りをしながら、買い物を終える。


 帰り道。


 袋を持つ手に、少しだけ重みがある。


 でも、不思議と嫌じゃなかった。


 玄関の前に立つ。


 鍵を回して、扉を開ける。


「ただいまー」


 靴を脱ぎながら声を出す。


「おー、帰ったか」


 リビングから、豊の声。


 いつも通りの、気の抜けた調子。


 ――そのはずだった。


「……あれ?」


 足が、止まる。


 何かが、違う。


 うまく言えない。


 でも、確実に“いつもと同じじゃない”。


 空気の密度が、わずかに変わっている。


 そのまま、リビングに入る。


 見えたのは、いつも通りの光景だった。


 ソファに座る豊。

 テレビの音。

 見慣れた部屋。


 ――ただ、一つだけ。


 見覚えのない人物が、そこにいた。


「……え?」


 思わず、声が漏れる。


 豊の隣。


 まるで最初からそこにいたみたいに、自然に立っている。


 甲冑に身を包んだ、人影。


 一瞬、現実が揺らぐ。


(……誰?)


 視線が、引き寄せられる。


 琥珀色の髪が、室内の光を受けて淡く揺れていた。


 整いすぎた顔立ち。


 男とも、女とも言い切れない中性的な美しさ。


 ただ、ひと目で分かる。


(……綺麗)


 その感想が、先に浮かぶ。


 そしてすぐに、違和感が追いついた。


(……なんで、うちにいるの?)


「……お兄ちゃん」


 ゆっくりと視線を向ける。


「なにこれ」


 豊は、少し困った顔で頭をかいた。


「いや、俺もよく分かってねぇんだけどさ」


 いつも通りの調子で言う。


「気づいたら、いた」


「いや意味わかんないから」


 反射的に返す。


 その間にも、視線は戻ってしまう。


 ――動かない。


 ただ、こちらを見ている。


 いや。


 見ているのは、結衣ではない。


 一拍遅れて、背後の気配が動いた。


「――下がれ」


 低い声。


 ノクスが、結衣の前に出る。


 その一歩で、空気が変わる。


 キリの視線が鋭くなり、アイルの笑みが消える。


 だが、その人物は微動だにしなかった。


 静かに、ただ一人を見ている。


 ――ノクスを。


「……へぇ、君が」


 一拍。


 琥珀色の髪が、わずかに揺れる。


「魔王」


 その二文字が落ちた瞬間。


 さっきまでの“日常”が、音もなく消えた。

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