第70話 知らなかった戦い
(自分の見えない場所で、こんなにも戦ってくれていた)
それからの数週間は、戦いだった。
――いや、正確には。
「戦い直し」だった。
机の上に、再び資料が広がる。
だが、前回とは違う。
迷いが、なかった。
前回は暗中模索だったが、今回は向かう先が見えている。
「ここ、甘い」
ノクスが、即座に指摘する。
「“想定”が足りん。読む側の視点で詰めろ」
「……読む側……?」
豊が、ペンを止める。
「審査員だ。そいつは何を見る。どこで引っかかる。どこで切る」
一拍。
「――それを、先回りして潰せ」
「……っ」
豊の喉が、鳴る。
「……無理だろそんなの……」
「無理ではない」
即答だった。
「お前は、現場を知っている」
「……え」
「米の状態、客の動き、季節の波」
指で資料を叩く。
「それを“言語化”しろ」
「……言語化……」
「“なんとなく良い”は通らん」
ノクスの目が、鋭く細まる。
「“なぜ良いか”を、証明しろ」
それからは――
ひたすら、書いて、直して、また書いた。
「これ、どうだ」
「弱い」
「どこが!?」
「数字だ。根拠を出せ」
「これなら!」
「長い。削れ」
「じゃあこれ!」
「いいな」
「ほんとか!?」
「八割だ」
「八割!?」
夜が、何度も過ぎた。
気づけば外が明るくなっていることもあった。
それでも――豊は、ペンを止めなかった。
(……前より、分かる)
前回は、ただ“揃えた”だけだった。
でも今は違う。
(……伝えてる)
この店のことを。
米のことを。
父がやってきたことを。
そして――
(……俺たちが、続けてるってことを)
気づいたら、ペンを握る手に力が入っていた。
怒りでも、焦りでもなく――
それがただ、当たり前のことのように。
「……よし」
ある夜。
ノクスが、短く言った。
「通る」
その一言に、豊は――その場に、崩れ落ちた。
「……終わった……」
「終わっていない」
「え?」
「次は、提出だ」
ノクスは、わずかに笑った。
「今回は遅れん」
「……そんなことになってたの?」
結衣は、ぽつりと呟いた。
「……全然、知らなかった」
記憶が、少しずつ繋がっていく。
あの頃の兄。
やけに無口で。
目の下に、影があって。
話しかけると笑うのに、どこか遠い目をしていた。
「……だから、お兄ちゃん……」
小さく、息を吐く。
「一時期、あんなにやつれてたんだね」
理由を聞いても、はぐらかされた。
でも今なら分かる。
――言えなかったんじゃない。
言う余裕が、なかっただけだ。
それなのに、笑っていた。
配達から帰るたびに「なんとかなるかな」と言って、結衣の頭を撫でていた。
「それで」
結衣が、ゆっくり顔を上げる。
「申請は……上手くいったの?」
一瞬の間。
ノクスが、わずかに視線を逸らす。
そして――
「……結果は、昨日出た」
静かに、言った。
一拍。
「もちろん――」
ほんの少しだけ、口角が上がる。
「採択決定だ」
その一言が、胸の奥に落ちた瞬間。
何かが、溢れた。
知らなかった。
こんなにも。
自分の見えないところで――こんなにも、動いてくれていたなんて。
バイト先で削られていた頃。
帳簿の数字と向き合って、先が見えなくて怖かった頃。
その全部の裏側で。
店のために。
未来のために。
ここまで、やってくれていた。
「……ノクス」
声が、震えた。
「……なんだ」
「ありがとう」
ただ、それだけだった。
それしか、言えなかった。
でも。
目の奥が、じわりと熱くなる。
視界がにじんで、ノクスの顔が霞む。
「……なぜ礼を言う」
ノクスが、静かに言った。
「当然のことをしたまでだ」
「当然じゃないよ」
首を振る。
「全然、当然じゃない」
「……」
ノクスは、何も返さなかった。
ただ、少しだけ視線を逸らした。
その耳が、わずかに赤い気がした。
結衣は、袖口で目元を押さえた。
泣くつもりじゃなかった。
でも――止められなかった。
「……そっか」
もう一度、呟く。
その一言に、全部が詰まっていた。
感謝も。
驚きも。
申し訳なさも。
温かさも。
うまく言葉にできない何かが、全部。
――なぜ、目を逸らした。
ノクスは、自分でも分からなかった。
目の前にいるのは、ただの人間だ。
弱く、未熟で、すぐに揺らぐ存在。
――そう、思っていたはずだ。
だが。
今、目の前にいる結衣は――違った。
潤んだ瞳。
今にも零れそうな涙。
それでも、確かに浮かんでいる、心からの笑顔。
そのすべてが。
胸の奥を、強く――掴んだ。
「……っ」
息が、わずかに詰まる。
(……なんだ、これは)
鼓動が、速い。
戦場でもない。
敵もいない。
脅威も、ない。
それなのに――体が、正直すぎるほど正直に反応していた。
(……なぜだ)
視線を、戻せない。
正面から、受け止められない。
ただの人間の表情のはずなのに。
(……なぜ、見られない)
胸の奥が、ざわつく。
言語化できない感覚が、内側で渦を巻いている。
不快ではない。
だが――理解できない。
これほど制御が効かないのは、いつ以来だろうか。
戦場でさえ、思考は止まらなかった。
敵の刃が目前に迫ろうと、判断を誤ったことは一度もない。
――それなのに。
たった一人の人間の笑顔に。
思考が、乱れる。
「……ノクス?」
名前を呼ばれる。
びくり、と。
ほんのわずかに、肩が揺れた。
「……なんでもない」
短く、返す。
だが、声が――僅かに低い。
自分でも分かるほどに、平静ではない。
(……落ち着け)
理性が、命じる。
状況を整理しろ。
感情を切り分けろ。
だが。
――できない。
思考が、微妙に噛み合わない。
それが、余計に――おかしかった。
「……あのさ」
結衣が、少しだけ照れたように笑った。
「アイルとキリも……ありがとうね」
一瞬。
空気が、止まる。
「……え?」
キリの声が、わずかに裏返った。
予想していなかった。
ノクスに向けられた感謝の流れの中で――自分たちの名前が、出るとは思っていなかった。
「だって、二人も一緒にやってくれてたんでしょ?」
結衣は、少しだけはにかむように笑う。
その笑顔は、さっきと同じで。
でも、今度は――まっすぐ、こちらに向けられていた。
「……」
キリの思考が、一瞬だけ止まる。
(……なんだこれ)
心拍数が、上がっている。
理由は明確ではない。
状況は理解している。
――ただの感謝だ。
(……なのに)
処理が、追いつかない。
胸の奥が、妙にざわつく。
理解はできている。
ただの「感謝」だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
――はずなのに。
「……べ、別に」
わずかに視線を逸らす。
「手伝っただけだ」
言葉が、少しだけ速い。
自分でも分かるくらいに、余裕がない。
「それでもだよ」
結衣が、やわらかく言う。
「すごく嬉しい。ほんとに」
もう一度、笑う。
今度は、少しだけ――近い。
「……っ」
キリの喉が、詰まる。
(……距離、近くないか?)
いや、物理的な距離は変わっていない。
変わったのは――“感じ方”だ。
心臓が、妙にうるさい。
(……は?)
内心で、素で戸惑う。
こんな反応、自分のものじゃない。
冷静で、合理的で、距離を測る側のはずなのに。
(……なんで)
目を合わせられない。
いや、合わせたら――何か、崩れる気がした。
それが何なのか、自分でも分からないまま。
「……ふーん」
アイルが、くすりと笑う。
その様子を、面白そうに眺めながら。
「キリも、そういう顔するんだ」
「……は?」
反射的に返す。
「してない」
「してるよ」
即答だった。
にこにこと、楽しそうに。
「分かりやすいなぁ」
「……分かりやすくない」
言い切るが、声にわずかな揺れ。
それを、アイルは見逃さない。
「顔、ちょっと赤いし」
「気のせいだ」
「ふふ、そういうことにしておいてあげる」
アイルは、肩をすくめる。
視線を、ゆっくりと全体に巡らせる。
――結衣。
――ノクス。
――キリ。
三人の間に流れる、微妙な空気。
それぞれが、それぞれの理由で少しだけ余裕をなくしていた。
(……なるほどね)
口には出さない。
でも、完全に理解していた。
アイルの目には、今日見たものが全部、鮮明に焼きついていた。
ノクスが視線を逸らした瞬間。
キリの声が裏返った瞬間。
そして――結衣が、涙を袖で押さえた瞬間。
ずっと二人だけの世界だった。
それで、十分だったはずなのに。
――でも。
今日、確かに“何か”が増えている。
それを、嫌だとは思わなかった。
(これ、面白くなりそう)
にこり、と。
どこか含みのある笑みが浮かぶ。
「まぁ」
軽く手を叩く。
「とりあえず――成功、でしょ?」
空気を、少しだけ戻すように。
「祝うくらいは、してもいいんじゃない?」




