第65話 豊の受難
(相談って言ってたじゃん…!)
ノクスは、机の上に広げた資料を軽く叩いた。
「今後の方針を説明する」
その一言で、部屋の空気が少しだけ引き締まる。
「現状、この店には“売れる商品”が不足している」
「……うん」
結衣は素直に頷いた。
分かっている。
分かっているけど、どうにもできないことでもある。
「だが、それは一時的な問題だ」
ノクスは淡々と続ける。
「間も無く、新米の時期が来る」
「……新米」
その言葉に、わずかに視線が揺れた。
期待と、不安。
両方が同時に浮かぶ。
「そのタイミングに合わせて、仕掛ける」
「仕掛けるって……」
「売り方を変える」
短く、はっきりと。
「商品ではなく、“価値”を売る」
結衣は、言葉を探すように口を開く。
「でも……」
一度、言葉を飲み込んでから、続けた。
「新米も、ちゃんと取れるか分からないし……」
天候。
収穫量。
品質。
どれも、自分たちではどうにもならない。
ノクスは、わずかに目を細めた。
「未来を心配したところで、結果は変わらない」
静かな声。
「それは、お前たちの手で操作できる領域ではない」
「……」
「だから考えるな、とは言わない」
一拍。
「だが、そこに時間を使うな」
視線が、まっすぐに結衣を捉える。
「今、この瞬間にできる最大限の打ち手を施す。それだけだ」
その言葉に、胸の奥が少しだけ軽くなる。
不安が消えたわけじゃない。
でも――やることが、はっきりした気がした。
「……具体的には?」
結衣が問い返す。
ノクスは、ほんのわずかに口元を緩めた。
「説明するには、順序がある」
資料の一枚を指で押さえる。
「まずは、現状の整理からだ」
そして――視線が、遠くへと向けられる。
「少し、時間を遡る」
ノクスは、売り場の動線と並行して、もう一つの問題に目を向けていた。
資金だ。
改善には、必ずコストが発生する。
だが、無闇に支出を増やせば、店は持たない。
「……ならば、外から引く」
そう結論づけたノクスは、情報収集に着手した。
昼間はスーパーの現場で業務改善。
夜は机に向かい、ひたすらに調べる。
制度、申請条件、過去の事例、採択率。
画面をスクロールする指は止まらない。
静かな部屋の中で、青白い画面の光だけが揺れていた。
その中で――ひとつ、気になる存在があった。
「……商工会議所」
画面に表示された文字を、低く読み上げる。
補助金の説明の中に、何度も出てくる単語。
申請支援、事業計画の確認、推薦。
つまり――
「関門、か」
ぽつりと呟く。
戦で言えば、城門のようなものだ。
ここを通らなければ、先へは進めない。
ノクスは、椅子に背を預けた。
視線は、画面ではなく、その先を見ている。
制度そのものは、理解できる。
合理的だ。
だが――
「……人間の審査が入る」
それが、引っかかっていた。
数字だけではない。
説明、印象、納得。
「人間」を通す工程。
そこに、誤差が生まれる。
「面倒だな」
だが、避けては通れない。
ノクスは再び画面に視線を戻した。
必要なのは、突破だ。
条件を満たすだけでは足りない。
通すための設計が必要になる。
その時だった。
「ノクス、まだやってんのか?」
声とともに、扉が開く。
豊だった。
手には湯のみを持っている。
湯気が、静かに立ち上っていた。
「……ちょうどいい」
ノクスは視線を上げた。
「明日、時間を空けろ」
「え、なんで?」
「この“商工会議所”とやらに行く」
「……ふーん?」
よく分からないまま、頷いてしまった。
翌朝になって、あの返事は軽率だったと豊は思い知ることになる。
商工会議所、と書かれた建物の前で、豊は軽く後悔していた。
「……いや、こんなん聞いてないって」
ぽつりと漏れる。
横に立つノクスは、いつも通りの無表情だ。
「何がだ」
「何がって……相談って言ってたじゃん」
「その通りだ」
「もっとこう……軽い感じのやつかと」
地域の相談窓口、くらいのイメージだった。
少なくとも、こんな――無機質で、妙に静かな建物だとは思っていなかった。
入口の前に立つだけで、なんとなく背筋が正される。
空気が違う。
中に入る前から、すでに違う。
「入るぞ」
「ちょ、ちょっと待って心の準備――」
止める間もなく、ノクスは扉を開けた。
案内された部屋は、やけに静かだった。
机と椅子。
余計なものは何もない。
窓から差し込む光だけが、白く床に落ちている。
時計の音すら、聞こえない気がした。
その奥に、一人の男が座っていた。
視線は、こちらに向けられていない。
手元の書類に落ちたまま、動かない。
なんだこの空気。
豊は無意識に背筋を伸ばしていた。
やがて。
カサリ、と紙をめくる音が響く。
その音が、やけに大きく聞こえた。
それから、ようやく。
「――どうぞ」
顔も上げずに言った。
低い声。
抑揚がない。
感情も、ない。
怖っ、と。
思わず心の中で呟く。
ノクスは気にした様子もなく、椅子を引いて座った。
豊も慌てて続く。
数秒の沈黙。
重い。
やけに重い。
呼吸するのが、なんとなく憚られる。
男はゆっくりと顔を上げた。
細いフレームの眼鏡。
その奥の目は、妙に静かで――何を考えているのか、まるで分からない。
値踏みでも、威圧でもない。
ただ、見ている。
それだけなのに、息が浅くなる。
「古賀と申します」
名乗る。
それだけ。
「本日は?」
短い問い。
それだけで、空気が締まる。
豊は一瞬、言葉に詰まった。
「え、あの……」
横を見る。
ノクスが、当然のように口を開いた。
「事業計画の相談だ」
迷いがない。
間もない。
古賀の視線が、ゆっくりとノクスに向く。
「……経営者は、どちらで?」
一瞬。
空気が、変わる。
「……あ、俺です」
豊が、反射的に答えた。
その瞬間。
古賀の視線が、完全に豊へと定まった。
外れない。
逃げ場が、なくなる。
「では、あなたが説明を」
「……え」
詰まる。
頭の中が、真っ白になる。
「その計画の、数値的根拠を」
淡々と。
逃がさない声音。
「売上の見込み。原価構成。投資回収期間。客層の変化予測」
「えっと、その……」
豊は、慌てて資料に手を伸ばした。
紙をめくる。
ぺらり。
どこだ……?
視線が走る。
数字はある。
グラフもある。
表もある。
さっき見た……はず……。
ページを戻る。
めくる。
また戻る。
いや、どれだよ……。
同じところを、何度も見ている気がする。
さっきは分かった気がした。
でも今は――何が、どこに書いてあるのか分からない。
「……」
喉が、乾く。
「……売上は、その……えっと……」
視線が泳ぐ。
数字を追う。
だが、意味として繋がらない。
断片が、バラバラに浮かぶだけだ。
違う、これじゃない……。
ページをめくる。
手が少し震えている。
「……原価率が……その……」
言葉にしようとした瞬間、止まる。
何をどう説明するんだ……?
「読める」のと、「説明できる」のは、別だった。
今この瞬間に、それを思い知る。
沈黙。
空気が、じわじわと冷えていく。
椅子の座面を、豊の指先がそっと掴んでいた。
ノクスが口を開こうとした、その瞬間。
コツン、と音がした。
古賀が、赤いボールペンを机に置いた。
書くためではない――打ち切りの合図だった。
「……結構です」
低く、切る。
「現時点で、採択は不可能です」
「……っ」
豊の呼吸が止まる。
「数字の根拠が、存在しない」
紙を軽く叩く。
「これは計画書ではなく、願望です」
「……」
何も言えない。
ノクスのこめかみが、わずかに、しかし確実に動いた。
だが、口は挟まない。
――ここで口を出せば、全てが終わると分かっている。
古賀は、次のページをめくる。
そして、手が止まった。
「……この備品費」
低い声。
「1円、端数が出ていますね」
「……え?」
思わず声が出た。
「切り捨てるか、根拠を提示してください」
「いや、ちょっと待ってください1円ですよ!?」
豊が思わず言う。
古賀の視線が、ゆっくりとこちらに向いた。
その瞬間。
空気が、凍る。
「その1円が」
静かに。
だが、確実に刺すように。
「あなた方の計画の“杜撰さ”を証明する毒になります」
「……」
言葉が出ない。
ノクスが、ゆっくりと口を開いた。
「……たかが1円の毒で崩れるほど、我が計画は脆弱ではない」
「ならば、証明を」
間髪入れずに返される。
一切の揺らぎがない。
「審査は“印象”ではなく、“整合性”で判断されます」
紙を軽く叩く。
「隙は、排除してください」
沈黙。
豊は、完全に理解した。
あ、これダメだ。
椅子の上で、背中が一ミリも動かせない。
ここ、戦場だ。
しかも――
ノクスがいても、勝てる気がしない戦場だった。




