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第64話 似合うと言われた後で


 (その言葉の後で、もっと大きなものを渡された)


 夜。


 昼間に買った服を、ようやくすべてクローゼットに収め終えた。


 扉を開けたまま、結衣はしばらくその場に立ち尽くす。


 そこに並んでいるのは、今までの自分なら絶対に選ばなかった色や素材ばかりだった。


 やわらかなシフォン。

 淡い色合い。

 少しだけ華やかなライン。


 指先でそっと触れると、布の感触がやさしく残る。


 ひとつ、取り出してみる。


 姿見の前に立ち、体に当ててみた。


 鏡の中にいるのは——


 いつもより、少しだけ。


 普通の女性に見える自分だった。


「……」


 思わず、頬が緩む。


 それは、どうしようもなく自然な反応だった。


 けれど。


 ふと、頭をよぎる。


 値上げ。

 お客さんの顔。

 断った時の沈黙。


 途端に、胸の奥がじくりと痛んだ。


(……こんなこと、してていいのかな)


 楽しいはずの感覚が、少しずつ重くなる。


 指先から伝わっていたやわらかさが、どこか遠くなっていく。


 自然と、表情が曇った。


 服をクローゼットに戻しながら、結衣は小さくため息をついた。


 その時。


 コンコン、と控えめなノックの音がした。


「私だ。入っていいか?」


「ノクス? いいよ、どうしたの?」


 扉が開いた。


 ノクスが、結衣のPCを手にして部屋に入ってくる。


 開いたままのクローゼットを一瞥して、わずかに笑みを浮かべた。


「気に入ったか?」


 その視線の意味に気づいて、結衣は小さく苦笑する。


「ありがと。すごく気に入った。……でも、ちょっと買いすぎ!」


「……もっとあってもいい。足りないくらいだ」


「もう。魔王様と庶民じゃ感覚が違うのよ」


 軽く返しながらも、どこか落ち着かない。


 ノクスの腕が伸びる。


 一着のシフォンのワンピースを、ハンガーごと手に取った。


 それを、自然な動きで結衣の体に合わせる。


 距離が、近い。


 視線も、近い。


 そのまま、しばらく眺めて。


 満足したように、口元がわずかに緩む。


「よく似合っている」


「……っ」


 心臓が、強く鳴った。


 向けられる眼差しが、どこまでも優しくて。


 逃げ場がなくなる。


(……ほんとうに、ずるい)


 こんな時に。


 そんな顔で、そんな声で、そんなこと言わないでよ。


 目が合ったまま、どちらも動かない。


 二秒か、三秒か。


 やけに長く感じた。


 しばらくして、ノクスはそっと服をクローゼットに戻した。


 何事もなかったかのように。


 けれど——


 結衣の胸の奥だけが、静かに騒いでいた。


 ノクスは、手にしていたPCを机の上に置いた。


「それと、もう一つ」


「ん?」


「機材を追加するべきだ」


「機材?」


 首を傾げる結衣に、ノクスは淡々と続ける。


「この端末では処理速度が足りない。作業効率が著しく低下している」


「……あー」


 ちらりと机のPCを見る。


 確かに古い。


 動きも遅い。


 でも——


「でも、新しいの買うお金なんてないよ?」


 即答だった。


 今の店の状況で、そんな余裕はない。


 さっき頭をよぎった値上げのことが、また胸に引っかかる。


 ノクスは、わずかに目を細めた。


「最初は負担になるだろうな」


「ほらやっぱり——」


「だが、無駄にはならない」


「……え?」


「正確には、“削れる”」


 結衣の思考が一瞬止まる。


「削れる?」


「税だ」


 さらりと言われて、結衣は少しだけ眉を寄せた。


「……経費ってことだよね」


「そうだ」


「青色申告で、複式簿記で帳簿つけてれば、控除があるやつ」


 言葉はすぐに出てくる。


 迷いもない。


 ただ——


「……やってるけど」


 ぽつりと続ける。


「“減ってる実感”って、あんまりないんだよね」


 口に出してみて、初めて気づいた。


 ずっと、どこかで引っかかっていたことだった。


 ノクスは一瞬だけ目を細めた。


「当然だ」


 即答だった。


「それは“結果”しか見ていないからだ」


「え?」


「お前は記録しているだけだ」


 ぴしゃりと言い切る。


「だが本来、帳簿は“管理”するためのものではない」


 一拍。


「“操作するためのもの”だ」


 結衣の思考が、一瞬止まる。


「……操作?」


「どこで、何を、どれだけ使うか。それによって、残る金額は変わる」


 静かに続ける。


「税も同じだ。払うものではない。調整するものだ」


「……」


 結衣は、言葉を失った。


 やっていることは、同じはずなのに。


 見ているものが、まるで違う。


 同じ帳簿を、同じように開いているのに——


 ノクスの目には、自分には見えていない何かが見えている。


 そのことが、悔しいような、眩しいような、不思議な感覚として胸に落ちた。


「……もう少し、詳しく教えてくれる?」


 気づいたら、そう言っていた。


 ノクスはわずかに目を細めた。


 今度は、さっきとは少し違う——


 何かを確かめるような目だった。


「ようやく聞く気になったか」


「最初から聞く気だったよ」


「顔が違った」


「……うるさい」


 そのときだった。


 がちゃ、と扉が開く。


「ねぇ結衣ちゃん、それ使っていい?」


 アイルだった。


 その後ろから、キリも顔を出す。


「先に俺が使う」


「えー、さっきキリ使ってたじゃん」


「五分だ」


「五分でも使ってたでしょ!」


 机のPCに向かって、二人が同時に手を伸ばす。


「ちょ、ちょっと!」


 結衣が止めるより早く。


 カチッ。


 電源が落ちた。


「「……」」


 沈黙。


 そして、ゆっくりと。


 二人が同時に顔を上げる。


「……お前のせいだ」


「いや絶対キリでしょ」


「同時に触った」


「だから譲ればよかったじゃん!」


 じわじわと空気がピリつく。


 結衣は額に手を当てた。


 ノクスが、それより先に動いた。


「……非効率にも程がある」


 低い声で言い捨てる。


 そして視線が、ゆっくりと結衣に向いた。


「だから言っている。端末は複数必要だ」


「……あー……」


 さっきの話と、目の前の光景が、ようやく繋がった。


「業務を分担している以上、作業環境も分離するべきだ」


「なるほどね……」


 ただの贅沢じゃない。


 必要な投資。


 その言葉が、頭の中でゆっくり形になる。


 今まで、自分に使うことを後回しにしてきた。


 でも、それは美徳じゃなくて——


 ただの消耗だったのかもしれない。


 ノクスは静かに言う。


「戦は兵站で決まる」


「またそれ言う」


「事実だ」


 きっぱりと断言する。


「環境が整っていない状態で成果を求める方が無理がある」


 その言葉に、少しだけ息を呑む。


 今までの自分を、見透かされたような気がした。


「……分かった」


 小さく頷く。


「ちゃんと話、聞く」


 ノクスは、わずかに満足そうに目を細めた。


 その表情が、どこか嬉しそうに見えたのは——


 気のせいじゃないと思う。

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