第66話 理解では足りない
(知っているだけでは、戦えない)
その日の夜、あの沈黙が、まだ耳に残っていた。
店のシャッターは、すでに閉まっていた。
蛍光灯の白い光だけが、静かに店内を照らしている。
外の音は届かない。
この空間だけが、切り取られているような静けさだった。
「……で」
机の前に座らされた豊は、目の前の資料を見下ろしていた。
分厚い。
昼間見たものと、同じはずなのに――まるで別物に見える。
あの部屋で古賀に叩き返されてから、数字の羅列が全部刃物に見えるようになった気がした。
「ここからは、叩き込む」
ノクスが、向かいから言った。
その声は低い。
だが、昼間よりも明らかに温度が下がっていた。
「……は?」
「理解では足りない。再現できるレベルまで落とし込め」
「いやいやいやいや」
思わず身を引く。
「今日のあれ見てたよな!? 無理だって!」
「無理ではない」
即答。
「やっていないだけだ」
「言い方!!」
机を叩く。
だが、ノクスは一切動じない。
椅子にも座らず、腕を組んだまま立っている。
その圧だけで、逃げ場がなくなっていく。
「まずは売上予測」
資料を指で押さえる。
「現在の平均単価と来客数から算出する」
「え、ちょっと待って」
「逃げるな」
「逃げるっていうか準備が――」
「ないなら今作れ」
「鬼か!?」
「魔王だ」
「開き直るな!!」
だが、逃げ場はなかった。
ノクスの指が、数字をなぞる。
「現在の月商」
「……えっと……」
記憶を探る。
出てこない。
毎月見ている数字のはずなのに、いざ口に出そうとすると、霧の中を手探りするような感覚になる。
額に、じわりと汗が滲む。
「……はぁ」
ノクスが小さく息をついた。
「そこからか」
「いや分かってる! 分かってるんだけど!」
「なら言え」
「今ちょっと出てこないだけで――」
「それを“分かっていない”と言う」
「ぐっ……!」
言い返せない。
拳が、膝の上で固まる。
反論の言葉を探して、見つからない。
それが、余計に悔しかった。
そのときだった。
「うわ、まだやってるの?」
軽い声が、後ろから落ちる。
振り返ると、アイルとキリが立っていた。
「……お前たちか」
ノクスが視線を向ける。
「ちょうどいい。補助しろ」
「いいよ〜」
アイルは気楽に頷く。
だが、キリは机の資料を一瞥して――眉をわずかに寄せた。
「……これ、前提が足りてない」
「は?」
豊が顔を上げる。
「地域の年齢層。世帯構成。購買頻度」
キリは淡々と続けた。
「それが分からないと、客単価も来客数もブレる」
「いやいやいやいや待って」
手を振る。
「そんなの急に言われても分かるわけ――」
「分かるだろ」
キリが即答する。
「毎日店に立ってるのはお前だ」
「それはそうだけど!」
「常連の年齢層」
「え、えっと……高め……?」
「幅が広すぎる」
「いやもうちょい具体的に言えってこと!?」
「当たり前だ」
容赦がない。
ノクスとキリ、二方向から詰められて、退路が完全に消える。
アイルが横から口を挟む。
「例えばさ、平日の昼っておばあちゃん多いよね?」
「……あー、うん」
「夕方は?」
「主婦と……仕事帰りの人?」
「子ども連れは?」
「土日が多い……かな」
「ほら、分かってるじゃん」
にこっと笑う。
「それを数字にするだけだよ」
「“だけ”が重いんだよ!!」
豊は頭を抱えた。
ノクスが言う。
キリが補足する。
アイルが整理する。
三人の声が、立体的に重なっていく。
頭の中で、点と点が結びつきかけて――でも、追いつかない。
知ってはいる。
分かってはいる。
だが、それを言葉にして、数字にして、順序立てて説明することの間には、見えない壁がある。
「……っ、待って、ちょっと待って」
机に突っ伏す。
こめかみのあたりが、じくじくと痛い。
「頭パンクする……」
「まだ序盤だ」
ノクスが冷静に言い放つ。
「ここから原価構成に入る」
「まだあるの!?」
「当然だ」
キリが淡々と続ける。
「次に投資回収。期間設定」
「やめて!!」
アイルがくすくす笑う。
「でもさ、これ出来たら無双できるよ?」
「無双より今を生きたい……」
机に額を押し付ける。
冷たい机の感触が、じんわりと額に広がる。
だが――その手は、資料から離れなかった。
ノクスが、静かに言う。
「今日の敗北は、無駄にはしない」
その一言で、豊の手がわずかに止まる。
「……」
さっきみたいに、何も言えないのは――もう嫌だった。
あの部屋のことが、頭をよぎる。
あの沈黙。
古賀の視線。
赤いボールペンが机に置かれた音。
口を開いても、何も出てこなかった自分。
言葉が来る前に、全部が凍りついていた。
それだけじゃない。
毎日米を担いで、配達して、頭を下げて。
それだけは誰にも負けない自信があった。
体力なら。
顔馴染みの数なら。
でも――今日みたいな場所では、それは何の役にも立たなかった。
全部、関係なかった。
胸の奥で、悔しさが燻っている。
じわじわと、静かに、でも確かに。
ぐっと歯を食いしばる。
机の冷たさが、まだ額に残っている。
それでいい。
まだここにいる。
「……もう一回」
顔を上げる。
さっきより、少しだけ目が据わっていた。
「最初から」
ノクスは、わずかに目を細めた。
その目の奥に、わずかに何かが動く。
――ようやく、戦える顔になったな。
「いいだろう」
その声は――ほんの少しだけ、柔らかかった。




