第58話 消えた傷、残る温度
(傷は消えた。それなのに、触れられた感覚だけが消えなかった)
夜。
風呂上がりの湿った空気が、まだ部屋に残っていた。
ドライヤーの音が、静かに響く。
鏡の前で髪を乾かしながら、結衣はぼんやりと口を開いた。
「……ノクスってさ」
背後。
壁にもたれたまま、腕を組んでいる気配。
「いつも、ああいうの決めてるんでしょ?」
ドライヤーを少し弱める。
「重要なこと」
「……ああ」
短い返事。
「疲れたりしないの?」
一瞬の間。
ドライヤーの風だけが、髪を揺らす。
「……するな」
少しだけ低い声だった。
「対立する意見とぶつかる時は、特に」
結衣は少しだけ笑った。
「やっぱりするんだ」
「当然だ」
淡々とした声。
「全員が納得する決断など、存在しない。誰かが、不利益を被る。それは避けられん」
ノクスの声が、わずかに遠くなるような気がした。
「だが――決断しなければ、全員が沈む」
「どちらを選ぶかではなく、どちらを選べるかだ」
その言葉に、結衣の手が一瞬だけ止まる。
今日のやり取りが、頭をよぎる。
困った顔。
濁した声。
言えなかった言葉。
「……そっか」
小さく呟く。
ドライヤーを止める。
部屋が、急に静かになった。
「じゃあさ」
少しだけ軽い声を作る。
「そういうの、どうやって耐えてるの?」
振り返らずに、聞く。
鏡越しに、ノクスの姿が映る。
「慣れだ」
即答だった。
「それか――」
ほんのわずか、間が空く。
「背負うと決めるか、だな」
「……重いね、それ」
「軽いものではない」
当然のように返される。
そして、少しだけ続ける。
「だが、背負い方を知れば――重さは、力になる」
結衣は鏡の中のノクスを見た。
その横顔は、どこか遠くを見ているようだった。
これは経験から来る言葉だ、と思った。
魔族領を治めてきた、長い時間の重さが、その一言に滲んでいる気がした。
その時、ノクスの視線がふと止まった。
「……結衣」
「ん?」
「その腕は、どうした」
結衣は自分の腕を見た。
うっすらと赤くなった擦り傷。
「あー、これ?」
軽く笑う。
「ちょっと転んじゃって」
「……転んだ、だと」
声がわずかに低くなる。
「配達中にさ、急いでて。段差見落として」
ひらひらと手を振る。
「たいしたことないよ」
ノクスは何も言わなかった。
ただ、じっとその傷を見ている。
その視線に少しだけ居心地が悪くなって、結衣はわざと軽く言った。
「日焼けもするし、擦り傷も作るしさ」
くすっと笑う。
「ほんと、私って女っけないよね」
一瞬。
空気が、止まった。
「……何だと」
低い声。
さっきまでとは、明らかに違う。
結衣が振り返る。
ノクスの目が、わずかに細くなっていた。
「その評価は、誰が下した」
「え?」
「自分か」
間を置かず、言い切る。
「それとも、他人か」
結衣は少しだけ言葉に詰まった。
「いや……なんとなく、そう思っただけで」
「愚かだな」
即断。
「は?」
「自らの価値を、そんな浅い基準で測るとは」
淡々と。
だが、はっきりと否定する。
「日焼けも、傷も――」
一歩、近づく。
「何かをやった結果だ。何もしていない者には、付かん」
そう言って、ノクスは結衣の腕に視線を落とした。
「……少し、触れるぞ」
返事を待たずに、ノクスの手が結衣の腕を取る。
「っ」
思ったより力強い。
けれど、乱暴ではない。
傷口を確かめるように、指先がそっとなぞる。
近い。
ノクスの視線は真剣な色を帯びたまま、傷口に注がれている。
その横顔が、いやに近い場所にある。
俯いているせいで、睫毛の長さまで見えた。
「……」
何か、囁いている。
言葉は聞き取れない。
ただ、かすかな吐息だけが、腕の上に落ちた。
触れられている場所から、じわりと何かが広がる。
温かいような。
くすぐったいような。
言葉にできない感覚。
触れられていないはずなのに、全身をなぞられているような錯覚に、息が詰まる。
ぞくり、と。
背筋を何かが駆け抜けた。
なに、これ。
たまらなくなって、息を止める。
じわじわと顔に熱が集まってくる。
恥ずかしいのか。
それとも、この奇妙な感覚のせいなのか。
自分でも分からない。
ただ、どちらにしても、顔を見られたくなかった。
やがて、小さく熱を持っていた傷口が、ゆっくりと肌色に戻っていく。
しばらくして、ノクスの顔が傷口から離れる。
その頃には、擦り傷は跡形もなく消えていた。
「これでいい」
満足そうに、傷のあった場所を確認する。
「……治った?」
「体内の魔力に干渉し、再生を促した。痛みもないはずだ」
「さっき、なんか変な感じがしたけど……」
「外部から干渉したからな。すぐに慣れる」
淡々とした説明。
ノクスにとっては、ただの処置らしい。
そう言って視線を上げた、その瞬間。
ぴくり、と。
わずかに体が強張る。
ほんの一瞬。
視線が、どこにも定まらないように揺れた。
結衣の顔が、すぐそこにある。
互いの吐息が触れるほどの距離。
視線が、真正面からぶつかる。
一秒。
二秒。
「……すまない」
低く、短く言って。
ノクスは、そっと手を離した。
視線がすっと横に逸れる。
いつもの、何も読み取れない横顔。
――だが。
耳の先が、わずかに赤い気がした。
結衣は動けなかった。
さっきまで握られていた腕が、まだ温かい。
温もりが、どこか遠くなっていくような。
引き留めたいような。
変な感覚だった。
心臓の音が、今になって一気に大きくなる。
なんで今さら、こんなに、うるさいんだろう。
「……ありがと」
かろうじて、それだけ言った。
「ああ」
とだけ返して、ノクスは窓の外に視線を向けた。
それ以上、何も言わない。
部屋の空気が、妙にあたたかかった。
さっきまでと、同じはずなのに。
結衣はしばらく、腕に残った温もりをそのままにしていた。
消えてしまう前に、もう少しだけ。




