第57話 選択の代償
(正しい選択は、優しいとは限らない)
決めたのは、夜だった。
帳簿とにらめっこを続けた末に、結衣と豊は結論を出した。
値段は、上げる。
そして――
これまで、ほとんど利益の出ていなかった取引先については、見直す。
切られる覚悟で、切りに行く。
「……俺が行くか?」
豊が言った。
少しだけ、迷いが混じった声だった。
結衣は首を振る。
「ううん。ここは、私が行く」
はっきりと。
「お兄ちゃん、優しいから」
「それ、褒めてる?」
「うん。でも、交渉には向いてない」
少しだけ笑う。
豊は肩をすくめて、
「否定できねぇな」
と小さく呟いた。
その横顔は、どこか安心したようにも、申し訳なさそうにも見えた。
翌日。
事前に電話でアポイントを取った上で、結衣はその取引先を訪れた。
車を降りた瞬間、冷えた外気が頬を刺す。
自動ドアが開く音が、やけに大きく聞こえた。
昔から付き合いのある、大口の取引先。
だが、利益はほとんど出ていない。
むしろ、維持しているだけで赤字が膨らんでいく。
応接室に通されるまでの廊下が、やけに長く感じた。
革靴の音が、硬い床に響く。
一歩ごとに、自分の心臓の音を意識する。
歩く速度を、変えないようにする。
「……ああ、君が?」
応接室に通されて、最初に向けられた視線。
それだけで分かった。
舐められている。
「お父さんの代からお世話になってますけど……娘さんが来るとはね」
軽い調子。
探るような目。
値踏みするような沈黙。
「今日は、どんな用件で?」
結衣は一度、息を吸った。
指先が、少しだけ冷たい。
怖い。
逃げたい。
その気持ちが、ほんの一瞬だけ顔を出す。
でも。
やるしかない。
ゆっくりと、口を開いた。
「本日は、今後の取引条件についてご相談に来ました」
「そう」
相手の眉がわずかに動く。
興味半分、警戒半分。
「現在の仕入れ価格の上昇に伴いまして――」
言葉を選びながら、丁寧に説明する。
仕入れの現状。
市場の変化。
今の価格では維持できないこと。
できるだけ感情を挟まずに。
数字と事実だけで、積み上げる。
自分の声が思ったより落ち着いていることに、結衣自身が少しだけ驚いた。
だが。
「……つまり、値上げってこと?」
途中で、遮られた。
「はい」
短く、答える。
「ふーん……」
椅子に深く座り直しながら、ため息をつく。
「いや、困るんだよね」
「今までこの値段でやってきたわけでしょ?」
「急にそんなこと言われてもさ」
軽い口調。
だが、圧は強い。
結衣の言葉が、一瞬だけ止まる。
分かっていた反応だった。
でも。
実際に向けられると、胸の奥が揺れる。
椅子の端を、指先でそっと握った。
その時。
ふと、ノクスの声が脳裏に蘇る。
――全員を救おうとした将は、全員を死なせる。
指先に、わずかに力が戻る。
視線を落とした先、左手。
そこに押された、契約の印。
父の代から続いてきたもの。
そして今は、自分が背負っているもの。
ノクスと交わした夜のことを、思い出す。
怖いか、と問われて。
怖いと答えた。
それでいい、と言われた。
私が、決める。
ゆっくりと、顔を上げる。
「……申し訳ありません」
一度、言葉を区切る。
逃げないように。
「今回から、価格を見直させていただきます」
はっきりと、言い切る。
空気が、変わった。
「……それは、そっちの都合だよね?」
今度は、少しだけ声が低い。
圧が、強くなる。
結衣は一瞬だけ息を止めて――
「……こちらも、同じです」
静かに、返した。
一拍。
相手の目が、わずかに細くなる。
「今のままでは、継続できません」
逃げない。
視線を、逸らさない。
「今後もお取引を続けていただけるのであれば、この条件でお願いいたします」
そして。
最後に、静かに付け加えた。
「難しい場合は――」
一瞬だけ、言葉を選ぶ。
でも、もう止まらない。
「今回で、終了とさせていただきます」
沈黙。
長い、沈黙。
結衣の心臓の音だけが、自分の中でやけに大きく響いていた。
テーブルの上で組んだ両手が、わずかに震えている。
それでも。
視線だけは、まっすぐ前を向いたままだった。
値上げの決定は、店の中だけでは終わらなかった。
結衣は、常連客へ向けた案内文を一枚ずつ印刷していた。
白い紙に、黒い文字。
丁寧な言葉で、できるだけ柔らかく。
それでも。
書いている内容は、変えようのない事実だった。
――価格を、見直します。
何度も見直した文章を、静かに重ねていく。
プリンターが一枚吐き出すたびに、手が少しだけ重くなる。
深く息を吐いて、もう一度、動かす。
伝えなきゃ。
逃げるわけには、いかない。
配達先の玄関先。
「こんにちは、いつもありがとうございます」
いつもと同じように声をかける。
いつもと同じように、米袋を渡す。
そして、その上に一枚の紙を添えた。
「あの……これ、今回からのご案内になります」
受け取った相手が、紙に目を落とす。
数秒の沈黙。
「……え?」
顔が上がる。
「値上げ、するの?」
その言葉に、胸の奥がわずかに軋む。
「……はい」
短く答える。
「えぇ……ちょっと、それは……」
言葉が濁る。
困ったような顔。
戸惑いと、わずかな不満。
そのまま、表情に出ていた。
「今までこの値段だったのにねぇ……」
軽く笑いながら言う。
その奥にある感情は、隠しきれていない。
結衣は、頭を下げた。
「申し訳ありません」
それ以上、言葉が出てこなかった。
頭を下げたまま、次の言葉を探して――
見つからなかった。
謝罪しか、出てこない。
でも。
謝罪では、何も解決しない。
その矛盾を、黙って抱えたまま。
頭を上げた。
別の配達先でも、同じだった。
「えー、上がるの?」
「これ以上はちょっと厳しいかもなぁ」
「量、減らせばなんとかなるかな……」
それぞれの生活が、そのまま言葉になって返ってくる。
責めているわけではない。
ただ、困っているだけだ。
分かっている。
分かっているからこそ。
何も言い返せない。
頭を下げて、次の玄関へ向かうたびに。
胸の奥に、小さな重さが積み重なっていく。
言葉が刺さるのではなく。
染み込んでいく。
一軒ごとに、少しずつ。
その中で。
「……まぁ、お米屋さんも大変だものね」
そう言ってくれる人がいた。
少しだけ笑って、紙を受け取る。
「無理しないでね」
その一言に。
目の奥が、じわりと熱くなった。
「……ありがとうございます」
自然と、言葉がこぼれた。
声が震えていないか、自分でも分からなかった。
それでも。
配達を重ねるたびに。
言葉を交わすたびに。
胸の奥が、じくじくと痛んでいく。
見えない何かで、少しずつ削られていくような感覚。
これで、いいんだよね。
何度も、自分に問いかける。
答えは、分かっている。
でも。
納得とは、少し違う。
車に戻り、運転席に座る。
エンジンをかける前に、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
静かな車内。
誰もいない空間で、ようやく息が抜ける。
ハンドルの上に額を乗せるようにして。
しばらく、そのままでいた。
泣いているわけではない。
ただ。
ここだけは、誰にも見せられない顔でいられた。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
やるしかない。
もう一度、心の中で繰り返す。
キーを回す。
エンジン音が、小さく響いた。
それを合図にするように――
結衣は、次の配達先へと車を走らせた。




