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第55話 足りない


 (すべてがうまくいっているように見えた。——足りないことを除けば)


 スーパーのリニューアルオープンイベントは、大盛況のうちに幕を閉じた。


 事前の準備が、そのまま結果になった日だった。


 売り場のレイアウトは見直され、

 寒々しかった蛍光灯の光は暖色系の照明へと変わっている。


 やわらかな光が、商品をより美味しそうに見せていた。


 シフト管理も、厨房設備も、レジも――


 積み重ねてきた準備が、ようやく「形」として現れ始めていた。


「いやぁ、いい感じだなぁ」


 店長が機嫌よく売り場を見渡す。


 その表情は、以前とは別人のように明るい。


 順調だった。


 誰が見ても、そう言える状態だった。


 だからこそ。


 その歪みは、目立たなかった。


 だが――


 その「順調さ」の裏側で、稲宮米店では、ある問題が起き始めていた。






「俺、ちょっと市外の農家さんの方まで行ってくる! 今日は遅くなるから」


「うん、気をつけてね」


「心配するなって。きっとなんとかなるから」


 豊はそう言って、結衣の頭を軽く撫でた。


 いつもの調子だった。


 それでも。


 玄関を出る背中が、いつもより少しだけ速い気がした。


 配達用のバンに乗り込む。


 エンジン音が、静かな住宅街に響く。


 やがて、その音は遠ざかっていった。


 ――その背中を、結衣はしばらく見送っていた。




 最近の米不足は、日に日に深刻さを増していた。


 見たこともない顔の客が、わざわざ米を求めて店を訪れる。


 遠くから来たのだろうか、息を切らしている人もいる。


 けれど――


 稲宮米店に積まれている米袋のほとんどは、業務用だ。


 個人客向けに回せる在庫は、限りなく少ない。


「……すみません、今日はもう……」


 そう断ることが、増えていた。


 売りたいのに、売れない。


 ――米がない。


 これまで一度も経験したことのない状況だった。


 ニュースでも連日取り上げられているせいか、客の表情にも余裕がない。


「どこにもないんです」

「少しでいいから……」


 そんな声が、店の中に残る。


 汗ばむ空気。

 湿った風。


 そして――


 一番、米がない時期。


 その現実を前にして、豊はじっとしていられなかった。


 時間を見つけては、車を走らせる。


 市外の農家へ。


 取引のない相手にも、頭を下げに行く。


 玄関先で名刺を差し出して、事情を説明して。


 それでも、断られることの方が多かった。


「一袋でもいいんです」


 そう言って、何度も頭を下げた。


 それでも。


 足りない。



 結衣もまた、電話対応に追われていた。


 受話器を置いては、また鳴る。


 名前を確認して、内容を聞いて、在庫を頭の中で組み替える。


 そんなやり取りが、途切れない。


「はい……申し訳ありません。いつもより量は少なくなってしまうんですが……」


 声を落としながら、言葉を選ぶ。


 顔馴染みの客だけは、なんとかしたい。


 けれど――


 これまでと同じ量を、用意することができない。


 普段なら二十キロ届けているところを、十キロに。


 残りは、別の客へ回す。


「すみません、今回はその形でお願いできますか……」


 受話器の向こうで、少しだけ間が空く。


 その沈黙の重さが、結衣の胸にじわりと染み込む。


「……分かりました」


 その一言に、胸の奥がわずかに痛んだ。


 文句を言わずに受け入れてくれる。


 それが、かえって苦しかった。




 綱渡りだった。


 誰かに多く渡せば、別の誰かが足りなくなる。


 均等に分ければ、全員が足りなくなる。


 正解がないまま、やりくりを続ける日々。


 どう切り分けても、誰かに申し訳ない気持ちが残った。




 卸にも、何度も連絡を入れた。


「多少高くても構いません。回せるものがあれば――」


 頭を下げて、頼み込む。


 かき集めるようにして、なんとか在庫を繋ぐ。


 けれど。


 仕入れ値は、確実に上がっていた。


 売値を変えなければ、利益は出ない。


 むしろ――


「……これじゃ、持たない」


 小さく呟く。


 帳面を開く。


 数字が、静かに現実を突きつけてくる。


 ペンを握ったまま、手が止まった。




 分かっている。


 やるしかない。


 けれど――


 それは、今まで通りではいられなくなる、ということだった。


 値段を上げれば、客が離れるかもしれない。


 届ける量を減らせば、信頼が崩れるかもしれない。


 それでも。


 何かを変えなければ、店が持たない。


 ――誰かを守るために、誰かを切る選択。


 その言葉が。


 帳面の数字の向こうに、静かに浮かんで――


 消えなかった。


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