表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
56/94

第50話 動き出す店、揺れる心


 (店は形になり始めている。——それと同時に、名前のつかない感情も)


 翌日の朝、結衣はいつもより少し早く稲宮米店に顔を出した。


 店の奥では、豊が米袋を動かしているところだった。


「お兄ちゃん」


 声をかけると、豊が振り向く。


「お、結衣」


 少し疲れた顔をしていたが、どこか表情は軽かった。

 昨夜遅くまで電話をかけ続けていたはずなのに、その疲れが妙に清々しく見えた。


「昨日の話、どうだった?」


 豊は少し考えてから言った。


「完全にスーパーの分を供給するのは無理だ」


 結衣の肩が少し落ちる。


 けれど、豊は続けた。


「でも」


 米袋を軽く叩く。


「毎日使う分を、少量なら回せるかもしれない」


 結衣が顔を上げる。


「ほんと?」


「農家さんも卸も、ほんの少しならって話だった」


 豊は苦笑する。


「正直、綱渡りだけどな」


 それでも、帳簿を閉じながら続けた。


「今までスーパーで使ってた米と併用する形なら、なんとかいけるかもしれない」


 結衣の顔が少し明るくなる。


「それなら……」


「一回店長と相談してみろ。どれくらい使うのか、それ次第だ」




 その日の午後、結衣はスーパーに戻り、店長に話を伝えた。


「全部は難しいですけど。少量なら、うちのお米も使えるかもしれません」


 店長は腕を組んで考える。


「今の米と併用する、ってことか」


「はい。惣菜全部じゃなくて、一部だけなら」


 しばらく沈黙が続いた。


「……それ」


 キリがぽつりと呟いた。


 みんながそちらを見る。

 キリは少し考え込むように顎に手を当てていた。


「むしろ、そっちの方がいい」


 店長が首を傾げる。


「どういうこと?」


「全部を同じ米にする必要はない」


 キリはゆっくりと言った。


「むしろ、分けた方がいい」


「分ける?」


「普通の惣菜は今までの米。でも――」


 少し視線を上げる。


「特別な惣菜は、米屋の米にする」


「特別って?」


「おにぎり。弁当。そういう、米が主役になるもの」


 言葉を区切って、キリは言った。


「『稲宮米店の米使用』」


 店の空気が、少し変わった。


「それだけで、ただの惣菜じゃなくなる。量が少ないなら――むしろ希少性になる。店の売りになる」


 赤い瞳が、ゆっくり細くなる。


 ノクスがわずかに口角を上げた。


「ほう」


 結衣は思わず呟いた。


「……ブランド?」


 キリは短く頷いた。


「そう。ブランドだ」


 * * *


 改装作業が始まって数日、店の中は毎日少しずつ形を変えていた。


 棚が外され、床が磨かれ、資材が運び込まれる。


 その中で、妙に目立つ存在がいた。


「アイルちゃん、ちょっとこれ見てくれる?」


「はーい」


 アイルはにこやかに返事をして、パソコンの前に座り込む。


「このラベル、もうちょっと文字大きくできないかなって」


「できますよ」


 カチカチ、と軽快にマウスを動かす。


 数秒後。


「こんな感じどうですか?」


「あら、見やすい!」


 おばちゃんが感心したようにアイルを見た。

 その視線が、一瞬だけ耳のあたりで止まる。


 アイルの耳には、かすかに光る小さな飾りがついていた。

 けれど次の瞬間、おばちゃんは何でもないように視線を戻した。


「アイルちゃん、ほんと器用ねぇ」


「えへへ」


 アイルは照れたように笑う。


「パソコン好きなんです」


 最近、結衣に頼み込んでデザインソフトを入れてもらったばかりだった。


 もっともそのパソコンは店のものではなく、改装の都合で持ち込んだ結衣の私物だ。


 そして――その一台を巡って、毎日小さな争奪戦が起きていた。


 ノクスは情報収集のために使いたがる。

 キリはマーケティングの資料を読みたがる。

 アイルはPOPやラベルを作りたがる。


 その時、キリが後ろから近づいてきた。


 耳元には、アイルと同じ小さな魔石がついている。

 それが発する幻覚魔術のおかげで、二人の尖った耳は人間と変わらない形に見えていた。


「またパソコン使ってるのか」


「今デザイン中」


 アイルは振り向きもせず答える。


「俺も調べ物がある」


「あとで」


「今だ」


「早い者勝ちだよ?」


 二人のやり取りを、少し離れたところで見ていたパートのおばちゃんが笑う。


「仲いいのねぇ」


「家でもこんな感じです」


 アイルがさらっと言った瞬間、周りの視線が一斉に結衣へ向いた。


「……え?」


 一拍遅れて気づいた結衣が、慌てて首を振る。


「ち、違いますから!」


 笑い声が広がる中、おばちゃんがポケットから小さな袋を取り出した。


「これ食べる? 飴」


「やったー」


 アイルが素直に両手を出す。


 その手のひらに飴を一粒乗せてもらって、大事そうにポケットにしまった。


「ありがとうございます」


 それを横目で見ていたキリが、小さくため息をつく。


「……相変わらずだな」


「キリくんも可愛いわよ?」


 宮本さんがくすりと笑う。


「別に」


 そっけなく答えながらも、


「キリくん、これお願い」


 と声がかかれば、短く「分かった」と言って運んでいく。


 無愛想なのに、なぜか頼まれごとだけは増えていく。




 少し離れた場所で、パートたちがひそひそ話していた。


「それにしても。結衣ちゃん、すごい人連れてきたわね」


 視線の先には、ノクスがいる。


 腕を組んで静かに店内を見渡している。

 見た目だけなら、かなり近寄りがたい。


「最初ちょっと怖かったけど――よく見てるのよね。昨日だって、重い棚運ぶとき、さりげなく手伝ってくれてたし」


「言い方は怖いけど」


「悪い人じゃないと思う」


 そこで一人が結衣を見て、にやっと笑った。


「結衣ちゃん」


「ん?」


「ほんとに何もないの? その乃久栖さんと」


 一瞬、沈黙。


 何もない。当然だ。

 そもそも人間ですらないんだから。


 頭ではそう分かっているのに、なぜか言葉より先に、顔が熱くなった。


「な、ないです!」


 周りが一斉に笑った。


「ほんとかなぁ?」

「怪しいわよねぇ」

「だってあんな人、普通いないじゃない」

「背も高いし」

「顔もいいし」


 結衣は慌てて首を振る。


「違いますって! ただの知り合いです!」


 * * *


 その時だった。


「あ、乃久栖さん」


 軽い声が割り込んできた。


 振り向くと、新人のアルバイトの女の子だった。


 改装が始まる少し前に入ってきたばかりの、まだ大学生の子だ。

 最近、パートたちの間で小さな噂が流れていた。


 ――あの子、イケメン目当てで入ったらしいよ。


 その「イケメン」が誰を指しているのかは、言うまでもなかった。


「それ、持ちますね」


 そう言って、ノクスの腕に軽く触れる。


 ノクスは一瞬だけその手を見た。


 まるで、よく知らない生き物が腕に乗ったような目だった。


「必要ない」


 短く言って、そのまま棚を持ち上げる。


 女の子は気にした様子もない。


「すごいですね、力」


 少し体を寄せる。


「乃久栖さんって前、何してたんですか?」


 ノクスは答えない。


 そのまま棚を運び、淡々と作業を続ける。


 会話が成立していないことにも気づかないのか、女の子はくるりと向きを変えた。


「あ、キリさん」


 今度はキリの腕に手を伸ばす。


「これ重そうですよね」


 キリの動きがぴたりと止まる。


「触るな」


 低い声だった。


「え? なんでですか?」


 悪気はまったくない。


 その横を、アイルが軽い足取りで通り過ぎた。


「あ、アイルくん」


 女の子の視線がすぐそちらに移る。


「アイルくんっていくつ? 学生? かわいいよね」


 ぽん、と肩に触れようとした瞬間。


 アイルはくるりと体の向きを変えた。


 するり、と。

 まるで風がすり抜けるみたいに。


 女の子の手は空を切った。


「え?」


 アイルはいつもの笑顔のまま、棚の向こうへ歩いていく。


「あ、宮本さん。さっきの段ボールどこ置きます?」


 自然な声だった。


 まるで最初から、そっちに用事があったみたいに。


 女の子はぽかんとした顔でその背中を見る。


 少し離れたところで、その様子を見ていたパートたちが小声で笑った。


「ほら、またやってる」

「ほんと懲りないわねぇ」




 結衣もそちらを見る。


 ノクスは相変わらず無表情で棚を運んでいる。

 キリは露骨に機嫌が悪そうだ。

 アイルは何事もなかった顔で作業を続けている。


 別に。どうでもいい。


 そのはずなのに、胸の奥がほんの少しだけざわついた。


 女の子の手がノクスの腕に触れた瞬間の、あの感覚。


 上手く名前がつけられないまま、ただそこに残っている。


「結衣ちゃん」


 横から声がした。


 宮本さんがにやにやしている。


「ほら見なさい。若い子は行動が早いわよ?」


「ち、違いますって! 別に、そういうんじゃ――」


 言いかけて、言葉が止まった。


 ノクスがこちらを見ていた。


 赤い瞳が、まっすぐに。


 どれくらいの間、こちらを見ていたのだろう。


 作業の手は止まっていない。

 それなのに、視線だけがまっすぐこちらに向いている。


 結衣は思わず視線を逸らした。


 パートたちの笑い声が、また少し大きくなった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ