第49話 父の残したもの
(残されたのは米じゃない。“繋ぐ方法”だった)
その日の夕方、店が閉まったあと、結衣は稲宮米店に戻ってきた。
店の奥では、豊が帳簿を広げて何か計算しているところだった。
「お兄ちゃん」
声をかけると、豊が顔を上げる。
「お、結衣。今日は早いな」
結衣は少しだけ息を弾ませながら言った。
「ねえ、ちょっと相談があるんだけど」
豊はペンを置く。
「どうした」
「スーパーでさ。うちのお米、使ってもらえるかもしれない」
豊の手が、ほんの少し止まった。
結衣は気づかないまま続ける。
「惣菜のご飯、おいしくないって意見があったみたいで。それで、もしよかったら米のこと相談できないかって」
少し照れたように笑う。
「まだ決まった話じゃないんだけどね。でも、もし本当に使ってもらえたら――」
言葉に、少しだけ期待が混じっていた。
「うちのお米、もっといろんな人に食べてもらえるじゃん」
豊は黙ったまま、帳簿に落とした視線をすぐには上げられなかった。
嬉しい。
それは本当だった。
でも同時に、ページの端に並ぶ名前が目に入る。
いつもの常連。
何年も付き合いのある店。
その一つひとつが、今の自分の限界を静かに示していた。
豊は小さく息を吐いた。
「……結衣」
その声に、結衣が顔を上げる。
「その話さ。すごくありがたいんだけど」
豊は少しだけ困ったように笑った。
そして、申し訳なさそうに続ける。
「正直、今――かなりギリギリなんだ」
「……え?」
結衣の声が小さく止まる。
「今配達してる常連さんの分だけでも、ほぼいっぱいだ。今年、米の量がかなり減ってる。農家さんも厳しいみたいでさ」
「……そんなに?」
「うん」
豊は頷く。
「卸ともやり取りしてるけど、正直どこも余裕がない。スーパーってなると量が違うだろ。確実に供給できるかって言われると……」
そこで言葉を止めた。
結衣の顔を見て、少し困ったように笑う。
「ごめんな」
「いや、そんな。だって、急な話だし」
そう言いながらも、結衣の肩が少しだけ落ちる。
その様子を、豊は黙って見ていた。
「でもさ」
少しだけ声を明るくする。
「せっかく結衣が持ってきてくれた話だろ」
帳簿を閉じる。
「もうちょっと掛け合ってみるよ。農家さんにも、卸にも」
それから、少しだけ笑った。
「どうにか出来ないか、やってみるよ」
店の灯りが落ちたあと、稲宮米店の店内には静かな空気だけが残っていた。
豊は一人、帳簿を見つめていた。
ページの端には、配達先の名前が並んでいる。
いつもの常連。
何年も付き合いのある店。
どれも、簡単には減らせない相手だった。
電球の光が帳簿の白いページを照らして、名前の一つひとつがやけにはっきり見える。
「……スーパーか」
結衣の顔が浮かんだ。
あんなに嬉しそうに話していた。
うちの米を、もっとたくさんの人に食べてもらえるかもしれない。
そう言って、少し照れながら笑っていた。
――ああいう顔、久しぶりに見た気がする。
豊は帳簿を閉じ、棚の上に置かれた古い電話帳を手に取った。
ページをめくる。
何度もかけた番号。
何年も付き合いのある農家の名前。
指が止まる。
しばらく、その名前を見つめていた。
親父なら、どうしただろう。
父はよく言っていた。
米屋は、米を売るだけじゃない。
米を繋ぐ仕事だと。
農家と、店と、食べる人を。
途切れないように。
豊は小さく笑った。
「……仕方ないか」
受話器を取る。
番号を押す。
数回の呼び出し音のあと、低い声が出た。
「もしもし」
「豊です」
少し間が空く。
「おう、豊くんか。どうした?」
懐かしい声だった。
電話越しでも分かる、あの低くてゆっくりした話し方。
「ちょっと、相談があって」
電話の向こうが静かになる。
「米か」
豊は苦笑した。
「……分かります?」
「最近それしかねぇからな」
低い笑い声が聞こえる。
「スーパーで、米を使ってもらえるかもしれない話が出てまして」
「スーパー?」
声の調子が少し変わる。
「量は」
「まだ決まってません」
豊は正直に言う。
「ただ、もし決まったら――結構な量になると思います」
電話の向こうで、誰かが小さく息を吐いた。
「……正直、今年は厳しいぞ」
「分かってます」
「うちも余裕はねぇ。どこもそうだ」
少しの沈黙。
それから。
「でもな」
声が、少し柔らぐ。
「お前んとこの親父には世話になったからな」
豊の指が、受話器を少し強く握った。
「……亡くなる前に、一回来てくれたんだよ」
電話の向こうの声が、少し遠くなる。
「今年は米が足りなくなるかもしれないって。早めに話しておきたいって」
豊は息を止めた。
「……知りませんでした」
「本人は大げさにしたくなかったんだろうな」
低い声が、ゆっくりと続ける。
「だから俺も、ちょっとだけ余分に確保してある」
胸の奥で、何かがじわりと熱くなった。
こういうことを、この人はさらりと言う。
父が、自分の知らないところでそんなことをしていたなんて。
もうその話を直接聞けないことが、じわりと痛い。
「全部は無理だ。けど、少しくらいなら回してやれるかもしれん」
「……本当ですか」
「まだ分からん。今年はみんなギリギリだからな。けど――一回聞いてみる。他のとこにも」
豊は深く頭を下げた。
電話越しで見えないと分かっていても。
「ありがとうございます」
電話を切ったあと、店の中はまた静かになった。
けれど、そこで終わりではなかった。
豊はすぐに次の番号を探した。
今度は農家ではない。
卸業者の番号だった。
呼び出し音が鳴る。
「もしもし」
事務的な声。
「稲宮米店の豊です」
「ああ、いつもどうも」
少しだけ雑談のあと、豊は本題を切り出した。
「ちょっと相談なんですが。中米でもいいので、回せる米ってありませんか」
電話の向こうで、短く息が漏れる。
「……中米?」
「はい。惣菜用なんで、多少粒が揃ってなくても大丈夫なんです」
沈黙。
それから、申し訳なさそうな声が返ってきた。
「正直な話をするとですね。今、どこも出せる米がほとんどないんですよ」
「やっぱり……」
「ただ」
少し声が落ちる。
「完全にゼロってわけじゃない」
豊の背筋が少し伸びた。
「ブレンド用の在庫が、ほんの少しだけある。ただし――量は期待しないでください」
「それでも大丈夫です」
豊はすぐに答えた。
電話を切ったあとも、豊は止まらなかった。
農家。
卸。
知り合いの業者。
思いつく限りの番号を、順番にかけていく。
断られる電話もあった。
苦笑されることもあった。
「今年は無理だ」
「うちも足りない」
同じ言葉を、何度も聞いた。
それでも、受話器を置くたびに、豊はまた次の番号を探した。
断られるたびに、少しずつ手が重くなる。
それでも止まれない。
結衣が、あんな顔で持ってきてくれた話だから。
それだけが、どこかに引っかかっていた。
店の時計を見ると、もう夜遅かった。
静かな店の中で、電話のボタンを押す音だけが響いている。
豊はふと手を止めた。
電話帳のページを指で辿りながら、ぼんやりと思う。
親父は、こんな夜にどんな顔で電話をかけていたんだろう。
同じ番号を、同じ声で。
頭を下げながら。
今夜、自分がやっていることを、父はどこかで見ているだろうか。
豊は小さく息を吐いた。
「……親父」
天井を見上げる。
薄暗い蛍光灯。
昔から変わらない、あの灯り。
「ちょっとだけ」
それから、苦笑する。
「力、借りるぞ」




