第48話 店が生まれ変わる日
(三十年変わらなかった場所が、いま何もなくなる。——だからこそ、次を作れる)
この数ヶ月、店の中は少しずつ変わってきた。
売り場の動線を変え、在庫を整理し、POPを貼り替え、できることを一つずつ試してきた。
そして今日、とうとう店そのものを変える工事が始まった。
朝。
まだ店は開いていない。
シャッターの半分だけ開いた店内に、朝の光が斜めに差し込んでいた。
埃っぽい空気の中で、光の粒がゆっくりと漂っている。
棚の半分はすでに空になり、段ボールと台車が並んでいる。
いつも醤油や缶詰が並んでいた場所が、今は何もない。
その「何もなさ」が、どこか胸のあたりをざわつかせた。
「……なんか、変な感じ」
結衣がぽつりと呟く。
その横で、脚立に乗った宮本さんが値札を外していた。
「そりゃそうよ。三十年この棚だったんだから」
パチン、と値札の留め具が外れる音が、がらんとした店内に思ったよりも大きく響いた。
「ほら結衣ちゃん、そっちの段ボール持って」
「はーい!」
結衣が抱えた箱は、思ったより重かった。
一歩踏み出した瞬間、体が前につんのめる。
その瞬間。
「危ない」
後ろから手が伸び、箱の底をしっかりと支えた。
振り向くと、キリだった。
「……重いなら最初から言え」
「平気だよ、これくらい」
そう言いながらも、キリは箱をそのまま奪い取る。
大した重さでもないように。
「平気そうには見えなかった」
それだけ言って、スタスタと先へ歩いていく。
その後ろ姿には、余計なものが何も書いていない。
宮本さんが脚立の上で、小さく笑った。
「仲いいのね」
「違います!」
即答。
キリは振り返りもしない。
店の奥では、断続的な金属音が響いていた。
ガン、ガン、と。
業者が惣菜コーナーの厨房を解体している。
三十年分の油と熱を吸い込んだ壁が、少しずつ剥がされていく。
「ここに新しい機械が入るんだっけ?」
結衣が覗き込む。
ノクスは腕を組んで、無言で現場を見ていた。
「大型炊飯器とスチームコンベクション」
少し間を置いてから、淡々と答える。
「今の設備では効率が悪すぎる」
「……魔王って、厨房機械も分かるの?」
「兵糧を軽視する指揮官は愚かだ」
即答だった。
「戦は食料で決まる。つまり、ここは最重要拠点だ」
厨房を見つめる赤い瞳には、冗談の色がない。
本気だった。
結衣はなんとなく、返す言葉を失った。
「それに」
ノクスは続けた。
「機械が人の代わりをできる部分を増やせば、人にしかできない仕事に集中できる」
「……人の代わり?」
「シフトを増やせない者がいると聞いた」
結衣の胸が、少しだけ跳ねる。
バックヤードで聞いた声が、蘇る。
扶養の問題。
シフトを増やせない。
結局、入れる人が全部かぶる――
「設備で補える部分は設備に任せる。それが合理的だ」
淡々と言う。
でも、その言葉の奥に、あの夜の「既に手は打ってある」が繋がった気がした。
その時。
「結衣ちゃん!」
店長が声をかけてくる。
「レジ周り、ちょっと相談いい?」
レジ台はすでに半分外されていた。
周りには従業員が集まっている。
普段はそれぞれの持ち場に散っているメンバーが、今日だけ同じ場所にいる。
なんだか、不思議な光景だった。
みんながここにいる、というだけなのに。
「このスペース空くでしょ」
店長が床を指す。
「ここ、どう使うかって話なんだけど」
結衣は一度、店内をゆっくり見回した。
棚の半分は外され、いつも商品が並んでいた場所には段ボールと台車が並んでいる。
壁際には工具や資材が積まれ、店の奥では業者の金属音がまだ続いていた。
いつものスーパーとは、まるで別の場所のようだった。
何かが終わって、何かが始まる。
そんな途中の場所。
それなのに、不思議と寂しさよりも、胸の奥がほんの少し浮き立つ。
引っ越し前みたい。
まだ家具も何もない新しい部屋に立った時のような、これからどうなるのか分からないけれど、どこか楽しみな、あの落ち着かない高揚感。
周りを見ると、従業員たちも同じようだった。
いつもなら黙々と作業している人たちが、今日は妙に口数が多い。
段ボールを運びながら冗談が飛び、棚を外しながら笑い声が混ざる。
三十年変わらなかった店が、今、目の前で形を変えている。
その真ん中に、自分たちがいる。
それだけで、どこか落ち着かない。
けれど、悪い気分ではなかった。
作業は午前いっぱい続いた。
棚の撤去。
商品の移動。
資材の整理。
普段の仕事とは違う体の使い方に、誰もが少し汗をかいていた。
昼前になり、ようやく一区切りつく。
店の裏口近くにある休憩スペースに、従業員たちが自然と集まった。
お茶を飲みながら座る人もいれば、疲れが抜けないのか椅子に腰を落としたまましばらく動かない人もいる。
けれど、その空気はどこか軽かった。
忙しいのに、どこか余裕がある。
そんな、妙な静けさ。
少ししてから、店長はテーブルの上に紙の束を置いた。
コピー用紙を数枚まとめただけの、簡単な用紙だった。
「改装の間、みんなにも少し考えてほしいことがあるんだ」
従業員たちの視線が自然と集まる。
「店をどう良くするか」
店長はそう言って、紙を軽く叩いた。
「やりたいことでも、直してほしいことでも、何でもいい。思いついたことを書いてみてほしい」
その紙には、店長の丸い字で短い説明だけが書かれていた。
――店を良くするための意見
――やってみたいこと
――改善してほしいこと
名前を書く必要もない。
思いついたことを、あとで書いて出せばいい。
店長は少し言葉を足した。
「新しい機械が入ったら、今まで人がやってた作業の一部が減る。その分、別のことに時間を使えるようになるはずだから」
誰かが小さく「へえ」と言った。
別の人が「どんな機械?」と聞く。
「炊飯とか、加熱調理の機械。大量に、早く、均一にできる」
ざわりと、小さなざわめきが広がる。
「シフトの問題もあるしな」
店長は続けた。
「増やせない人は増やせない。だったら、今いる人数でもっと回せるようにするしかない」
その言葉は、責める響きではなかった。
ただ、現実を見ている声だった。
何人かが、静かに頷く。
普段なら、その場で意見を聞かれても誰も手を挙げない。
だからこそ、店長は紙を用意したのだろう。
従業員たちは少し戸惑いながらも、紙を受け取っていく。
ペンを持つ人。
とりあえず折りたたんでポケットに入れる人。
紙をじっと見つめたまま、まだ書き出せない人。
それでも、誰も拒む様子はなかった。
結衣も一枚受け取り、膝の上に置いた。
白い紙を見つめる。
売り場の動線、作業の無駄、シフトの問題。
書こうと思えば、いくらでも浮かぶ。
* * *
その時だった。
店長がふと思い出したように言った。
「そういえばさ」
「この前のアンケートで、惣菜のご飯おいしくないって意見があったんだよ」
誰かが小さく「あー……」と苦笑する。
思い当たる人が何人もいる顔だった。
店長は頭を掻きながら続ける。
「俺は炊き方の問題かなって思ってたんだけどさ」
少し視線を横に動かす。
「結衣ちゃん、米のこと詳しいよね」
それは質問というより、確認だった。
結衣は一瞬だけ目を瞬かせてから、小さく頷いた。
「はい」
店長は少し懐かしそうに笑う。
「昔よく世話になったんだよ。親父さんの米、うまかったからな」
それから、少しだけ真面目な顔になる。
「どう思う? 惣菜のご飯って、やっぱり炊き方の問題なのかな」
結衣は少しだけ考えた。
視線が自然と、解体された惣菜コーナーへ向く。
「……たぶん」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「炊き方もあると思います」
けれど、と続けた。
「それだけじゃないかもしれません」
店長が首を傾げる。
「どういうこと?」
「スーパーって、大量に炊くじゃないですか」
「うん」
「それをジャーで保温することが多いんです」
何人かの従業員が頷く。
惣菜や弁当を作る人なら、よく知っている作業だった。
「電気炊飯器で大量に炊いて、長時間保温すると」
少し手を動かしながら説明する。
「水分が回って、米がくっつきやすくなるんです」
「団子みたいになるってこと?」
宮本さんが言う。
「……はい」
結衣は頷いた。
「あと」
少しだけ言いにくそうに続ける。
「使ってるお米も、惣菜向きじゃない可能性があります」
店長が顔を上げる。
「米って、用途で結構変わるんです」
結衣はゆっくり説明する。
「お弁当とか、おにぎりみたいに冷めて食べるものは、冷めても粒が残るお米の方がいいんです」
店長は腕を組んだ。
「なるほど……」
しばらく考えてから言う。
「じゃあ、米を変えたら良くなる?」
結衣はすぐには答えなかった。
少し迷ってから、正直に言う。
「……たぶん、変わると思います」
それから続けた。
「でも」
顔を上げる。
「私だけでは判断できないので」
少しだけ照れたように笑う。
「兄に確認してみてもいいですか?」
店長は「ああ」と頷いた。
「豊くんか」
そして言う。
「一回話聞いてみようか」
ここまで読んでいただきありがとうございます。
リアクションやブックマーク、本当に励みになっています。
もう少しで物語が大きく動きますので、引き続き楽しんでいただけたら嬉しいです。




