第47話 隣に立つ者の役目
(支えるとは、背負うことじゃない——隣に立ち、共に処理することだ)
結衣は濡れた手を拭き、振り向いた。
「……何?」
ノクスはしばらく何も言わずに、流しの横に立った。
逃げ道を塞ぐでもなく、ただそこにいるだけの壁のように。
「今日、何を見た」
問いかけではなく、断定だった。
結衣の指が、ぴくりと止まる。
「……別に」
「嘘だな」
声は荒くない。
けれど、逃す気は一切ない。
赤い瞳が、真っ直ぐに結衣を捉えている。
視線を逸らしたまま、唇を噛んだ。
「……ちょっと、聞いただけ」
「何を」
短い言葉なのに、逃げ道がない。
「……人手が足りないって」
ぽつりと落ちる声。
「忙しくなっても、シフト増やせない人がいるって……扶養の関係で……」
それ以上は続かなかった。
「なんだ、そんなことか」
あまりにもあっさりとした返答。
結衣が顔を上げる。
「そんなことって……!」
言葉が、つい強くなる。
けれど次の瞬間、力が抜けた。
「……だって」
小さな声。かすれている。
「みんな、すごく頑張ってるのに」
ノクスの瞳が、わずかに揺れた。
一度崩れた堰のように、言葉が溢れ出す。
「ノクスも、アイルも、キリも……毎日遅くまで動いてるのに」
視界が滲む。
「売り場、ちゃんと変わってるし、お客さんも喜んでるし……」
唇を噛む。
「それなのに」
声が震えた。
「ここで私が不安だなんて言ったら、全部否定することになるじゃん……」
涙が、ぽろりと落ちた。
「それは嫌だった」
俯いたまま続ける。
「夜遅くまで作業してるの、知ってるし……みんな本気でやってくれてるのに」
拳が震える。
「それを“怖い”なんて言ったら、全部間違いだったって言うみたいで……そんなの、言えないよ」
長い沈黙のあと、ノクスが静かに口を開いた。
「……愚かだな」
責める響きではなく、むしろ呆れに近かった。
「結衣、お前は根本を履き違えている」
一歩、距離を縮める。
「努力とは、否定されるためにあるのではない。問題が発生した時に修正するためにある」
結衣は顔を上げられない。
「不安を報告することは、失敗の宣言ではない。戦況の共有だ」
その言葉は責めるものではなく、指揮官として当然のことを告げる声だった。
「お前が黙ることで失うものの方が、遥かに大きい」
一拍。
「現場の声が届かない軍は、滅ぶ」
否定されていない。
むしろ、必要だと言われている。
「それに、売り場が機能しているのは事実だ。客は増え、回転も上がっている。つまり、我々の策は有効だ」
淡々とした分析が続く。
「人手不足は、その結果として発生した問題に過ぎん。原因が分かっている以上、対処は可能だ」
結衣の呼吸が、わずかに止まる。
「解決すべきは“状況”だ」
一拍、置いて。
「既に、手は打ってある」
さらりと言った。
それ以上は話さない。
でも、その一言に迷いはなかった。
胸の奥に、じんわりと何かが広がった。
否定されていない。
全部無駄だったとは言われていない。
その事実だけで、張り詰めていたものが少し緩む。
「……でも」
かすれた声。
「みんな、無理してるかもしれないのに」
「当然だ」
迷いのない即答。
「戦力が不足していれば、前線に負担がかかる。それを放置するのは指揮官の怠慢だ」
一歩、さらに近づく。
「だからこそ、お前が報告する必要があった」
低く、静かな声。
責めているのではない。
ただ、事実を告げている。
「お前は、自分の役目を放棄した」
その言葉に、肩がびくりと揺れる。
「優しさのつもりだろうが、事実は事実だ」
ぐっと唇を噛む。
反論できない。
ノクスは、小さく息を吐いた。
「……もっとも」
声が、ほんのわずかに柔らぐ。
「理由は理解した」
その瞬間、結衣の視界が揺れた。
否定ではない。
断罪でもない。
理解だ。
「お前は我々を気遣ったのだろう」
低く、静かな声。
「自分一人が抱えれば済むと思った」
図星だった。
「だが――」
ノクスの手が、ゆっくりと持ち上がる。
一瞬、ためらうような間があった。
そして。
そっと、結衣の肩に触れた。
驚くほど静かな動作だった。
強くもない。拘束でもない。
ただ、そこにあるだけの重み。
その重みが、じわりと温かかった。
「それは傲慢だ」
耳元で落ちる声。
「お前が抱え込めば解決すると思ったのならな」
結衣の心臓が大きく跳ねる。
「我々は、そこまで無力ではない」
赤い瞳が、至近距離から見下ろしていた。
逃げ場はない。
けれど――怖くない。
「それに」
声が、さらに低くなる。
「お前が不安を抱えていると知れば」
一拍。
「誰も止まらん」
胸が締めつけられる。
「むしろ、加速する」
ほんのわずかに口角が上がる。
「解決するまでな」
肩に触れた指先に、ほんの少し力が込められた。
逃がさないわけでも、縛るわけでもない。
ただ、そこにいるという証明だった。
「だから――」
低く、確かな声。
「不安があるなら、最初に私に言え」
命令ではない。
けれど、逆らえない。
「それを処理するのが、指揮官の役目だ」
一瞬だけ、視線が柔らぐ。
「……お前一人に背負わせるものではない」
低く、断定する声。
「それは――」
ほんのわずかに、距離が縮まる。
吐息が届くほどの近さで、ノクスはゆっくりと言葉を置いた。
「お前の隣に立つ私の役目だ」
結衣は、息ができなかった。
赤い瞳が、まっすぐに自分を見ている。
逃げ場も、言い訳も必要ないと告げるような視線。
肩に触れたままの手の温もりが、じんわりと広がっていく。
泣いていたはずなのに、今は泣けなかった。
泣くより大事なことが、目の前にある気がして。
やがて――
くすり、と小さな笑いがこぼれた。
「……魔王様は、本当に頼もしいね」
涙の跡が残ったままの、少しだけ照れた笑顔。
ノクスは、わずかに顎を上げる。
「当たり前だ」
即答だった。
「私は魔王だ」
誇りも迷いもない声。
なのに、その声がどこかほっとするほど温かくて――
結衣は思わず吹き出した。
「ふふ……そうだった」
肩の力が、ようやく抜ける。
張り詰めていた空気が、ゆっくりほどけていった。
ノクスは肩から手を離した。
でも、どこかまだそこに温もりが残っている気がして、結衣はそっと自分の肩に触れた。
気づかれないように、ほんの少しだけ。
廊下の暗がり。
そこに、黒い影があった。
キリだ。
壁にもたれ、腕を組んだまま動かない。
扉越しに聞こえた笑い声。
安堵が、胸に広がる。
よかった。
確かにそう思った。
結衣はもう一人で抱えていない。
それでいいはずだ。
なのに。
胸の奥に、何かが残る。
うまく言葉にならない、ざらついた感覚。
なんだ、この感じは。
苦しいわけではない。
だが、落ち着かない。
理由が分からない。
自分の内側にあるはずなのに、手が届かない。
キリは小さく息を吐き、踵を返した。
* * *
「おかえり」
布団の上で本を読んでいたアイルが顔を上げた。
柔らかな笑み。
「結衣ちゃん、大丈夫そうだった?」
キリは短く頷く。
「……あぁ」
それ以上の言葉は出なかった。
アイルは本を閉じ、じっとキリを見つめる。
「なんだか、スッキリしないって顔してるね?」
「そんなことはない」
即答。
「これで問題は解決した」
淡々とした声。
理屈としては正しい。
だが。
アイルはにっこりと笑った。
まるで全部分かっているかのように。
「じゃあ――キリの方の問題かな?」
キリの眉がぴくりと動く。
「問題? 特にないが……」
自分でも、少しだけ歯切れが悪いと感じる。
アイルはくすりと笑った。
「キリはまだまだお子ちゃまだね」
「同い年だろ!」
思わず声が上がる。
「精神年齢の話だよ」
さらりと返される。
言葉に詰まるキリ。
アイルは枕に頬杖をつきながら、楽しそうに続けた。
「安心したのに、なんかモヤモヤするんでしょ?」
図星。
何も言えない。
「それね――」
アイルは目を細めた。
「とても人間らしい感情だよ」




