第46話 前に進むほど、見えてくるもの
(店は確かに動き始めた。
けれど、前に進むほど現場にかかる重さも、はっきり見えてくる。)
レジに立ってしばらくした頃だった。
店内のスピーカーが、軽い電子音を鳴らす。
「ただいま惣菜コーナーにて、出来立ての唐揚げ弁当が仕上がりました。数に限りがございますので、お早めにお求めください」
結衣は思わず顔を上げた。
アナウンス?
今まで、この店でそんな案内を聞いた記憶はない。
次の瞬間、客の流れがはっきりと変わった。
さっきまで各売り場に散っていた人たちが、惣菜コーナーの方へと歩き出す。
近くにいた主婦が、かごを持ち直した。
「あ、唐揚げ弁当だって」
「昨日も早かったのよね」
会話しながら、足取りが速くなる。
レジ前を通り過ぎていく背中が、次々と同じ方向へ向かった。
遠くから、担当者の声が聞こえる。
「並べます、熱いので気をつけてください!」
ざわり、と小さな人だかりができた。
取り合いではない。
けれど、明らかに「待っていた」空気だった。
その様子を見ていた別の客が、レジに商品を置きながら言った。
「あとであれも買って帰ろうかしら」
追加で買うんだ。
レジを打ちながら、結衣は胸が高鳴るのを感じた。
強引な売り込みじゃない。
ただ、知らせただけ。
それだけで、人が動く。
「唐揚げ弁当、残りわずかとなっております」
追い打ちのようなアナウンス。
今度は、小走りの足音まで混じった。
「まだある!?」
「よかった、間に合った」
その横を、補充用のトレーを抱えたスタッフが急いで通り過ぎる。
売り場が、回っている。
レジの向こう側で、ノクスが静かに立っていた。
客の流れを観察しながら、小さく頷く。
「情報を与えるだけで十分だ。判断するのは民自身だからな」
キリは柱にもたれ、腕を組んだまま何も言わない。
ただ、人の動きと売り場の反応を見ている。
問題なし。
そう言っているようだった。
アイルは少し驚いたように目を見開き、それからほっとしたように微笑む。
派手な改革ではない。
でも――確実に、店が動いている。
客が増えたわけじゃない。
特別なセールでもない。
それでも、一つ一つの商品が意味を持って売れていく。
レシートを手渡しながら、結衣は胸の奥に小さな確信が灯るのを感じた。
この店は、ちゃんと変わり始めている。
* * *
「結衣さん、交代です」
声をかけられ、我に返る。
時計を見ると、ちょうど休憩の時間だった。
バックヤードへ入った瞬間、売り場とは別の空気が流れていることに気づいた。
低い声。
押し殺したようなため息。
「……忙しいのはいいけどさ」
誰かが言った。
「このまま年末まで続いたら、身体もたないわよ」
結衣は足を止める。
「私はもうシフト増やせない。扶養超えるもの」
別の声。
「じゃあ、その分誰がやるの?」
沈黙。
「……結局、入れる人が全部かぶるんでしょ」
胸が、きゅっと締めつけられた。
売り場はあんなに活気があったのに。
同じ店の中とは思えないほど、空気が重い。
「売上上がっても、人は増えてないのよ」
ぽつりと落ちたその言葉が、一番強く刺さった。
何も言えないまま、立ち尽くす。
表では、成功。
裏では、不安。
その両方が、同時に本当なのだと――初めて分かった気がした。
* * *
夕食の席は、静かだった。
湯気の立つ味噌汁。
焼き魚の香ばしい匂い。
いつもと同じはずの光景なのに、どこか落ち着かない。
「……結衣ちゃん?」
向かいに座るアイルが、そっと首を傾げた。
「元気ない? 体調悪いの?」
結衣は箸を止め、はっと顔を上げる。
「え? そんなことないよ」
反射的に笑う。
「ちょっと忙しくて疲れてるだけ」
言いながら、自分でも薄い言葉だと思った。
「そう……」
アイルは頷いた。
けれど、その表情は少しだけ曇る。
絶対、元気ない。
口には出さない。
でも、はっきり分かる。
言いたくないのかな、それとも――僕以外の誰かなら、話すのかな。
アイルはすぐにその考えを振り払った。
そんな顔は見せない。
ただ、優しく微笑む。
隣では、キリがずっと無言だった。
箸を動かしながら、ちらちらと結衣を見る。
視線が合いそうになると、慌てて逸らす。
明らかに様子がおかしい。
分かっている。
だが、どう切り出せばいいのか分からない。
聞くべきか。
いや、だが――もし違ったら失礼ではないか?
いやしかし、疲れているのは事実だ。
だが――
ぐるぐると脳内で作戦会議が続く中、結局口から出てきたのは、それだった。
「疲れたのなら、休め」
ぶっきらぼう。
けれど、精一杯の優しさだった。
「片付けはやっておく」
結衣は少し驚いたように目を丸くする。
「え? いいよ、大丈夫」
また、その言葉。
「キリもアイルも、昼間いろいろ頑張ってたでしょ? お客さん、すごく喜んでたし」
にこり、と笑う。
「本当に二人ともすごいよね」
話を逸らすように。
キリの眉が、わずかに寄る。
「……ダメだ」
低い声。
「お前のそういう時の“大丈夫”は当てにならないと、魔王からも言われている」
「えっ」
結衣が固まる。
「言われてるの!?」
「事実だ」
真顔だった。
* * *
その時、玄関の扉が開く音がした。
「ただいまー……」
疲れた声。
豊が帰ってきた。
作業着のまま、どさりと荷物を下ろす気配。
「遅くなった……あ、飯まだある?」
「あるよ、温めるね」
結衣が立ち上がろうとする。
「座れ」
キリが短く言った。
「……でも」
「俺がやる」
有無を言わせない声音だった。
アイルもすっと立ち上がる。
「じゃあ僕、お茶いれるね」
二人に押される形で、結衣は椅子に戻った。
豊が席につくと、空気が少しだけ賑やかになる。
「今日なー、配達先でさ――」
いつもの調子で話し始める。
結衣も相槌を打つ。
笑う。
普通に振る舞う。
けれど、キリとアイルは何度も視線を交わしていた。
やっぱり。
アイルの瞳が静かに揺れる。
このまま放っておくのは危ない。
食事が終わり、結衣が風呂の準備に席を立った瞬間。
「……キリ」
小さな声。
「あぁ」
二人は同時に振り向く。
「あの人、まだ店だよね」
「ああ」
「……連絡、した方がいいと思う」
キリは一瞬だけ迷った。
だが、すぐに頷く。
「同意する」
アイルは苦笑した。
「僕じゃ、きっと話してくれない」
「俺でも同じだ」
二人の視線が重なる。
「――あいつなら」
「うん」
結衣が知らないところで、静かな合意が成立した。
* * *
さらに遅い時間になって、玄関の鍵が静かに回った。
カチ。
重たい足音。
扉が開く。
「……起きているか」
「おかえり、遅くまでお疲れ様」
顔を覗かせたのは、ノクスだった。
結衣は次の朝の米を洗っている真っ最中だ。
しゃり、しゃり、と指先に触れる小さな感触。
最近は少し多めに米を研ぐようにしている。
炊飯器の減り方が、明らかに早くなったからだ。
結衣が握ったおにぎりが、彼らの本来の「形」を繋ぎ止める糧になる。
そう聞いた時は驚いたけれど、今はもう、それが当たり前の日常になっていた。
役に立つなら、いいよ。
水を替え、静かに流す。
白く濁った水が、ゆっくりと透明に変わっていく。
予約ボタンを押した瞬間、背後に気配が立った。
赤い瞳が、まっすぐに彼女を捉える。
「話がある」
逃がさない、というより――
もう一人で抱えさせない、という響きだった。




