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第43話 繋いでいくもの

 (父が残したのは、店だけじゃない——生き方だった)


 夜は、静かだった。


 昼間の賑やかさが嘘みたいに、家の中はしんと落ち着いている。

 食器の音も、話し声も、もうない。


 結衣は台所の明かりだけをつけたまま、流し台に手をついていた。


 眠れない。


 理由は分かっている。

 今日は久しぶりに、兄と二人きりで外に出たから。


 買い物袋を提げて歩く背中。

 ハンドルを握る横顔。

 作業服を試着して、照れくさそうに目を逸らした姿。


 どれも、懐かしかった。


 父がいた頃の日常に、似ていたから。


 結衣は少しだけ迷ってから、廊下の突き当たりへ向かった。


 今はほとんど使っていない部屋。

 父の部屋だった場所。


 扉を開けると、空気が違った。


 時間が止まったみたいな匂いがする。


 電気をつける。


 そこには、ほとんど何も置かれていない。

 必要なものは整理して、店や家のあちこちに移したからだ。


 それでも――


 父の机だけは、そのまま残してあった。


 結衣はゆっくり近づき、椅子の背もたれに手を触れた。


 ひんやりとした木の感触。


 父の手の形が馴染んでいるような気がして、少しだけ強く握る。


 夕方、店から戻ってきて。

 帳簿をつけて。

 電卓を叩いて。


 テレビの音だけが、部屋に流れていた。


 その光景が、まだここに残っているような気がした。


「……お父さん」


 呼んでも、返事はない。


 分かっている。


 それでも、呼びたくなる。


 机の引き出しを開けると、古いノートが入っていた。


 使い込まれた帳面。

 表紙の端が擦り切れている。


 結衣は、そっとそれを開いた。


 数字、仕入れ、配達先、メモ。


 丁寧だけど、どこか大雑把な字。


「……ほんと、お父さんらしい」


 思わず笑う。


 無駄が多くて、整理が下手で。

 でも――ちゃんと続いている。


 毎日、続いている。


 最後のページで、手が止まった。


 途中で終わっている。

 日付も、計算も、全部中途半端。


 ここで、終わったんだ。


 胸の奥が、ぎゅっと痛む。


 結衣は帳面を閉じ、額を軽く押しつけた。


 紙の匂いがした。


「……ごめん」


 声が震える。


「もっと、帰ってくればよかった」


 大学。友達。将来。自分の人生。


 全部、大事だった。


 でも――


 父は、一人で店を回していた。


 無理をしていたはずなのに、何も言わなかった。


「……ごめん」


 もう一度。


 静かな部屋に、小さな声が溶けていく。


 しばらく、そのまま動けなかった。


 やがて、結衣はゆっくり顔を上げる。


 涙は出ていなかった。


 ただ、胸が重い。


 視線が机の上に落ちて、古い電卓に止まる。


 何度も落としたのか、角が欠けている。

 ボタンの文字も、擦れて薄い。


 手に取る。


 思ったより、重かった。


 ただの電卓なのに。


 父が毎日使っていたもの。

 父の時間が詰まっているから、重いのかもしれない。


 そのとき――


 昼間の光景が浮かんだ。


 新しい作業服を着た豊。

 少し照れながらも、嬉しそうだった顔。


 食卓で笑うアイル。

 冷静な顔で周囲を見ているキリ。

 当たり前のようにそこにいるノクス。


 もう、二人じゃない。


「……お父さん」


 小さく呟く。


「大丈夫だよ」


 机の上に電卓を戻し、帳面をそっと整える。


「私たち、ちゃんとやってる」


 声はまだ少し震えていた。


 それでも、さっきよりずっとまっすぐだった。


「お兄ちゃんも、すごく頑張ってる」


 一拍。


「……変な人たちもいるけど」


 思い出して、少しだけ笑う。


 魔王。エルフ。異世界。


 どう考えても意味が分からない。


 それなのに。


「……でも、楽しいんだ」


 静かに言う。


「ちゃんと、前に進んでる気がする」


 机に手を置き、深く息を吸う。


 それから、はっきりと。


「私、この店を守るよ」


 宣言のようだった。


 誰に聞かせるでもなく。

 誰に褒められるでもなく。


 ただ、自分の中で決める。


「お父さんが大事にしてきたもの、ちゃんと繋ぐ」


 目を閉じる。


「だから――」


 ゆっくり、目を開く。


「見てて」


 それだけ言って、帳面を閉じた。


 電気を消す。


 扉を閉める前に、もう一度だけ部屋を振り返る。


 暗闇の中、机だけがぼんやりと浮かんで見える。


 結衣は小さく頷き、扉を閉めた。


 廊下に出る。


 家の中の気配が、戻ってくる。


 遠くで、誰かが寝返りを打った音。

 冷蔵庫の低い唸り。


 ――人がいる音だ。


 結衣は、少しだけ微笑んだ。


 大丈夫。


 さっきまでとは違う。


 胸の奥の重たい石は、もうない。


 代わりにあるのは――


 静かな、確かな熱だった。


 自室の扉を開ける前に、ふと立ち止まる。


 明日からも、頑張ろ。


 誰に言うでもなく、心の中で呟く。


 そして。


「おやすみ、お父さん」


 小さな声。


 それはもう、悲しみではなかった。


 前を向いた人の声だった。


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