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第42話 兄と妹と、変わっていく日常

 (ふたりだった家に、少しずつ人が増えていく——それも、悪くない)


 朝のキッチン。


 包丁がまな板を叩く音。

 炊飯器の蒸気が立ち昇り、ほのかに甘い香りが部屋を包み込む。


 今日は、いつもより少し静かだった。


「おはよ」


「おはよう」


 あくびをしながら入ってきたのは、まだ寝巻き姿の豊だった。

 ポリポリと頭を掻きながら、眠たげな目で部屋を見渡す。


「珍しいな……今日は結衣だけか」


「昨日、ノクスとキリとアイルで遅くまで何かやってたみたい」


 今日は米の配達のない日。

 この時間に家にいるのは、久しぶりだった。


 豊は鍋の中を覗き込む。


「お、良い匂い。いつもありがとな」


「どういたしまして」


 自然に、頭へ手が伸びた。


 撫でた瞬間、懐かしい感触がした。


 まだ小さかった頃。

 泣き虫で、でも強がりで。後ろをちょこちょこついてきた妹。


「もう、子供扱いしないでよ」


 そう言いながらも、振り払わない。


「全く、ノクスもお兄ちゃんも私のこと子供扱いして……!」


 最近、結衣の口からは、ここ数ヶ月で突然現れた同居人たちの名前が、やたらと出るようになった。


 ほんの数ヶ月前までは。


 父と二人で囲む食卓が、当たり前だった。

 たまに帰省してくる結衣が加わると、途端に騒がしくなって。


 それが、普通だと思っていた。


 崩れたのは、あまりにも突然だった。


 悲しい、というより――理解が追いつかなかった。


 店は、どうする。

 俺一人で回せるのか。


 葬儀が終わり、静まり返った家に戻った数日後。

 玄関が勢いよく開いた。


 大きな荷物を抱えた結衣が、立っていた。


「私、大学辞めてきた!」


「……は?」


「やるよ! 一緒に!」


 言い出したら聞かない性格なのは知っていた。

 だが、これはあまりにも大きすぎた。


 何度も話し合った。止めようとした。

 だが、結衣は折れなかった。


「俺が不甲斐ないから……」


 もっとしっかりしていれば。

 妹に、こんな選択をさせずに済んだのに。


 そう謝ると、結衣は笑った。


「お兄ちゃんと一緒だったら、楽しそうじゃん」


 ――敵わない、と思った。


 本気で。


 慣れない仕事に四苦八苦しながら、二人で店を回した。


 常連の名前、配達先、好みの銘柄。

 結衣は必死に覚えた。


 慣れない運転で帰ってきて、そのまま玄関で寝ていたこともあった。

 二人で寝落ちして、夜中に目が覚めて。

 冷めた夕飯の代わりに、カップ麺を食べた夜もあった。


 それでも――


 あの頃は必死だったけど、ちゃんと前を向いていた。


「どうしたの?」


 結衣の声で、現実に戻る。


「いや、なんでもない」


 よく笑う。その分、溜め込む。


 支えなければと思った矢先、

 非日常が、突然押し寄せてきたのだ。


「おはよう」


 眠そうな声。


 振り向くと、アイルが立っていた。

 寝癖のついた金髪に、少し大きめのシャツ。


「いい匂い……」


 目が半分閉じている。


 さらに――


「すまない、寝坊した」


 低い声。


 長身のノクスが現れた。

 すでに完全に目が覚めている顔で、服装もきっちり整っている。


 後ろからキリも続く。


「腹が減った……」


 着替えてはいるが、シャツの裾が少しだけ出ていた。

 いかにも寝起きだ。


 ついこの前まで二人だった空間が、

 いつの間にか、こんなことになっている。


 当たり前のように食器を運ぶノクスとキリ。

 アイルだけは、立ったまま寝そうだ。


 豊は肩を掴んで、椅子に座らせた。


「倒れるぞ」


「……ありがと……」


 半分夢の中の声。


 何なんだ、この状況は。


 魔王だの、エルフだの。

 常識では説明のつかない連中。


 でも――


 結衣は、前よりよく笑う。


 それだけは、確かだった。


 豊は湯気の立つ味噌汁をよそいながら、小さく息を吐いた。


 ――まあ、悪くないか。


 


 きっかけは、結衣の一言だった。


「たまには一緒に買い出し行こうよ」


 少しだけ暖かな午前中。


 店の備品を買い足し、足りないものをメモと照らし合わせながら、郊外の店を回る。


 バンの助手席で、結衣は窓の外を眺めていた。


 ほんの数ヶ月前まで、父がここに座っていた。

 結衣が帰省した日だけ、助手席が結衣の場所になった。


 今は――


 結衣が当たり前のように、隣にいる。


 同じ景色を、同じ速度で通り過ぎていく。


 それが今は、少し不思議な気がした。


 信号で止まったとき、結衣が小さく言った。


「……なんかさ」


「ん?」


「こういうの、久しぶりだね」


 豊は前を見たまま、短く返す。


「そうかもな」


 それ以上は言わなかった。


 言ったら、何かが溢れそうだった。


 


 業務用の店で必要なものを揃えたあと、最後に寄ったのは作業用品のコーナーだった。


 豊がいつものように素通りしようとしたとき、不意に袖を引っ張られる。


「……お兄ちゃん」


 結衣が立ち止まっていた。


「それ、買おう」


「は?」


 視線の先に並んでいるのは、作業着、エプロン、防寒用の上着。


「作業服。新しいの」


「別にいいよ」


 即答。


「汚れるし、今ので足りる」


 結衣は少し眉を寄せる。


「足りてない」


「まだ着れる」


「穴あいてる」


「……小さい穴だ」


「袖も擦れてる」


「……擦れるのは作業服の仕事だろ」


 苦し紛れの理屈だった。


 自分でも、分かっている。


 結衣は息を吸って、少しだけ声を落とした。


「お客さんの前に出ることもあるんだから、ちゃんとしなきゃ」


 その言い方が、豊の胸の奥に刺さる。


 店のため。客のため。


 結衣はいつも、そうやって自分の気持ちを包む。


 本当は――


「……いいんだよ、結衣。お前がそんな気を使わなくても」


 結衣は首を振った。


「気、使ってない」


 少し間が空く。


「……お兄ちゃんは、店の顔なんだから」


 責める言い方じゃなかった。


 むしろ、誇らしげだった。


 豊は、何も言えなくなる。


 結衣は棚から一着、丈夫そうな作業シャツを抜き取る。

 もう一着、ズボンも。


 手早い。


「ほら。試着」


「しなくていい」


「するの」


「……頑固だな」


「お兄ちゃんほどじゃない」


 即答。


 豊は観念して、試着室へ向かった。


 


 数分後、カーテンが開いた。


 出てきた豊を見て、結衣は一瞬止まる。


「……いいじゃん」


 ぽつり。


「なにが」


「店長っぽい」


 豊が固まる。


「……は?」


「顔が。ちゃんとしてる」


 真面目な顔で頷いて、値札を見る。


「これにしよ」


 豊は小さく息を吐いた。


「……高いな」


「必要経費」


 きっぱり。


「……店の金で買うの?」


「違う」


 結衣が首を振る。


「お兄ちゃんの。今日のお兄ちゃんのやつだから」


 レジへ向かいながら、豊はぼそっと言った。


「……俺が払う」


「え?」


「俺が買う。店の金じゃなくて、俺の」


 結衣が驚いた顔をする。


 豊は目を合わせず、前を向いたまま言う。


「……そういう気分なんだ」


 結衣は、少しだけ笑った。


「そっか」


 


 レジ袋を受け取って、店を出る。


 風が冷たくて、でも日差しは暖かかった。


 車に戻る道。


 結衣がふと、袋を見て言った。


「……似合ってたよ」


「……もういい」


「いいじゃん、褒めてんのに」


「褒め方が変なんだよ」


「どこが」


 豊は答えない。


 答えたら、多分、顔に出る。


 車に乗り込み、シートベルトを締める。


 エンジンをかける前に、豊は小さく言った。


「……ありがとな」


 結衣が一瞬きょとんとして、すぐに視線を逸らした。


「……別に」


 その声が、少しだけ嬉しそうだった。


 二人とも、それ以上何も言わない。


 エンジンの音が、静かな車内に響いた。


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