第41話 理性派、褒めに弱すぎる
(人の流れは読めるのに、彼女の一言は読めなかった)
結衣はしばらく息を整えてから、顔を上げた。
くすっと笑う。
「……うん、ちょっと大変だった」
キリが、さらに沈む。
「でもね」
ゆっくりと言う。
「すごく楽しそうだった」
顔が上がった。
「キリが好きなもの見てる時の顔、私好きだよ」
沈黙。
キリの頬が、じわりと赤くなる。
視線が、そっと横へ逃げた。
「……そ、そうか」
小さな声。
「なら……良かった」
人混みを抜けて、フードコートの端の席に腰を下ろす。
周囲は騒がしいのに、ここだけ少し落ち着いていた。
結衣は深く息を吐く。
「……はぁ、生き返った……」
数分後、キリが両手に紙コップを持って戻ってきた。
「これで良かったか?」
「アイスティー……?」
「最も無難そうだった」
真顔で言う。
思わず、笑ってしまう。
「ありがとう」
受け取る。
冷たい。
一口飲むと、喉をすっと通っていった。
おいしい。
向かいに座ったキリは、まだどこか気まずそうだった。
「……先ほどは、本当にすまなかった」
「もういいって」
苦笑する。
「キリ、すごく楽しそうだったし」
キリが、わずかに目を瞬かせる。
「……そう見えたか」
「うん」
ストローを回しながら言う。
「キリ、本当に分析するの得意なんだね」
しばらく、沈黙が落ちた。
キリは視線をコップに落とし、静かに口を開く。
「……最初は、生きていくためだったんだ」
結衣は顔を上げる。
「アイルを守るために、金を稼ぐ必要があった」
淡々とした声。
でも、どこか遠い目をしていた。
「無駄を減らし、利益を最大化する方法を必死に考えた。どうすれば人が集まるか。どうすれば金を使うか。どうすれば損をしないか」
指先が、コップの縁をなぞる。
「すべて、必要に迫られて身につけた」
結衣は、何も言えなかった。
「だが――」
少しだけ、声が変わる。
「いつの間にか」
顔を上げた。
「それ自体が面白くなっていた」
青い瞳が、まっすぐこちらを向く。
「自分が想定した通りに人が動き、客が流れる仕組みが目に見えて機能したとき」
わずかに、口元が緩む。
「……一種の達成感がある」
ほんの少しだけ、照れたように視線を逸らす。
「自分が世界の流れを、少しだけ制御できたような感覚だ」
胸が、きゅっとした。
「キリ、すごいね」
思わず、言葉が出た。
キリが固まる。
「え?」
「そこまで考えられる人、なかなかいないよ」
まっすぐ言う。
「尊敬する」
完全停止。
視線が泳いで、耳が赤くなっていく。
「……そ、そうか」
気まずくなったのか、小さく咳払いをしてからこちらを見る。
「結衣、お前は……すぐ人を褒めるな」
「そうかな?」
「思ったこと言っただけだけど」
「普通は……もっと警戒する」
少し言い淀む。
心なしか、目が潤んでいた。
「他の者に対しても、同じように言うのか」
一拍。
キリは口を開きかけて、すぐに閉じた。
言うべきか迷っているのが、指先の動きで分かる。
紙コップの縁を、強く握る。
「その、……す……」
「す?」
かすれた声が出た。
「……好き、だとか」
一瞬で、体が固まる。
さっきのやりとりが頭の中で巻き戻る。
思い出した瞬間、顔が熱くなった。
「あ、あれは……その! えっと、ふ、深い意味はなくて……!」
「わ、分かっている!」
「だから、容易く人を褒めるのは危険だと……!」
フードコートの一角で、顔を真っ赤にした二人。
通りがかりのおばさんが、まあまあ、と微笑ましそうに通り過ぎていった。
駐車場へ向かう道。
夕方の空気はひんやりとして、人通りもまばらだった。
隣を歩く結衣は、何事もなかったかのように鼻歌を歌っている。
騒がしくて、無防備で、隙だらけだ。
落ち着かない。
胸の奥が、妙にざわつく。
理由は分かっていた。
今日一日、店の中で見せていたあの表情。
無邪気で、楽しそうで――まるで子どものようだった。
理解不能だ。
そう思いながら歩いていたとき、不意に声がかかる。
「キリ、ちょっと」
振り向くと、結衣が何かを差し出していた。
「お願い。絶対似合うと思うから」
やけに真剣な顔だった。
その手にあったのは――
100円ショップの伊達メガネ。
なぜだ。
先ほど「この価格で利益が出るのか」と戦慄していた場所の品だ。
「かけてみて」
期待に満ちた目。
断る理由が見つからず、仕方なく装着する。
「……どうだ」
一瞬の沈黙。
次の瞬間――
「やっぱり!!!」
声が弾けた。
「すごい似合う!!」
やたらと近い距離で顔を覗き込まれる。
「眼鏡かけると、五割増しくらいで仕事できそうに見える!」
「……できそう、ではなく出来ていると思うが」
「そういう意味じゃなくて!」
笑いながら、満足そうに頷く。
「買おう。絶対似合う」
なぜ俺の装備が、この女に決定されるのだ。
だが――
あまりにも嬉しそうな顔だったため、否定する気が失せた。
気づけば、そのまま購入していた。
妙な女だ。
そう思いながら歩いていると、そのまま車を通り過ぎそうになった。
「キリ、ここだって」
不意に、腕を掴まれる。
石鹸の匂いが、夕方の冷たい空気の中で鼻をついた。
清潔で、柔らかくて――どこか落ち着かない。
温かい。柔らかい。近い。
何の躊躇もなく、こんなふうに触れてくる。
警戒心がないのか、それとも――
「ぼーっとしてた?」
無防備な顔で覗き込まれる。
「……問題ない」
短く答えた。
だが、心臓の鼓動は、しばらく落ち着かなかった。




