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第35話 進まない夜

 (“可能な範囲で”って、どこまでですか)


 翌日、意を決して電話をかけた。


 コール音がやけに長く感じる。


 逃げ道が、一本ずつ消えていくみたいだった。


「はい、桜木会計事務所です」


 優しい女性の声だった。


「す、すみません……稲宮米店の……」


 言葉が詰まる。


 事情を説明すると、すぐに別の男性に代わった。


「税理士の田中です。大変でしたね」


 穏やかな声だった。


 それだけで、少し泣きそうになる。


「確定申告の件ですね。まず、いくつか確認させてください」


 淡々としているが、冷たくはない。


「帳簿はありますか?」


「……途中までなら」


「領収書やレシートは保管されていますか?」


 机の上の山を見る。


「……あります」


「通帳やカードの明細は?」


「……多分」


「昨年の申告書は?」


 父の書類が入った箱を思い出す。


「あると思います」


 一拍。


「未処理の期間は、いつ頃からでしょう?」


 喉が詰まった。


「……父が亡くなってから……です」


 沈黙。


 だが、責める気配はなかった。


「分かりました」


 柔らかい声だった。


「まずは一度、面談しましょう」


「め、面談……」


「はい。実物を見ないと正確な判断ができませんので」


 カレンダーをめくる音が聞こえる。


「できるだけ早い方が良いですね。来週の木曜日でしたら、時間を確保できます」


 来週。


 思ったより、ずっと近い。


「それまでに、今お話しした資料を可能な範囲でご用意いただけますか?」


 可能な範囲で。


 優しい言葉なのに、全然優しく感じなかった。


 可能な範囲がどこまでなのか分からない。


 何が足りていて、何が足りないのかも分からない。


「……は、い」


 震える声だった。


「大丈夫ですよ。一人で抱え込まないでください」


 電話が切れた後も、しばらく受話器を持ったまま動けなかった。


 向こうから聞こえていた生活音が、急に遠くなる。


 部屋は静まり返っていた。


 目の前には、書類の山。


 間に合うの?


 答える人はいない。


 カレンダーに視線を落とすと、来週の木曜日に視線が吸い寄せられた。


 赤い丸が、まるで期限を告げる印のように見えた。


 ⸻


 一日が過ぎた。


 何も解決しないまま。


 店の仕事をしている間は、考えないようにできた。


 忙しさが、思考を押し流してくれるから。


 けれど夜になると、全部戻ってくる。


 部屋の机の上。


 昨日と同じ場所に、書類の山がある。


 逃げていたわけじゃない。


 ただ、向き合う勇気が出なかっただけだ。


 結衣はゆっくり椅子に座り、帳簿を開いた。


 紙の擦れる音が、やけに大きく響く。


 中には、整然と並んだ数字と文字。


 父の字ではなかった。


 少し癖のある、だが驚くほど読みやすい筆跡。


 ノクス。


 店を立て直すと言ったあの日から、空いていた帳面はほとんど埋められていた。


 日付、取引先、金額、摘要。


 無駄がなく、迷いがない。


 まるで最初から、こう書かれることが決まっていたかのように。


 すごい、と思う。


 尊敬と同時に、胸の奥がじわりと痛んだ。


 同じことをやらなければならないのに、同じようにはできない。


 ページをめくる。


 そこから先は——空白だった。


 父が亡くなってから、ノクスに出会うまでの期間。


 何も書かれていない。


 その間に溜め込まれたレシートだけが、束になって挟まれていた。


 ここ、全部。


 自分がやらなければならない場所。


 指先がわずかに震えた。


 ボールペンを握る。


 日付を書く。


 手が止まる。


 次に何を書くのか、一瞬分からなくなる。


 レシートを一枚手に取り、金額を見て、勘定科目を考える。


 分からない。


 スマホを開いて検索すると、似たような言葉が並んで余計に分からなくなった。


 時間だけが過ぎる。


 時計を見る。


 まだ数分しか経っていなかった。


 嘘でしょ。


 もう一時間くらい格闘した気がしたのに。


 もう一度書こうとする。


 数字を書いて、桁を間違えて、消して、書き直して、また間違える。


 紙が少しだけ汚れる。


 息が浅くなっていた。


 焦りだけが、風船みたいに膨らんでいく。


 来週。


 その言葉が、頭の中で何度も反響する。


 間に合うの?


 これ、全部、私がやるの?


 目の前の紙の束が、終わりのない壁みたいに見えた。


 父なら、もう終わっていたのだろうか。


 父は、こんなふうに迷ったりしなかったのだろうか。


 喉の奥が痛くなる。


 レシートを握る手が、少し震えていた。


 一枚。また一枚。


 進んでいるのか、同じ場所を回っているのか分からない。


 机の上には、処理した紙とそうでない紙が混ざり始めていて、どちらがどちらなのかも自信がなくなってきた。


 何やってるんだろう、私。


 目の奥が熱くなる。


 でも、泣く余裕はない。


 泣いたら、もっと時間が無駄になる気がした。


 ペンを持つ。


 書く。止まる。消す。また書く。


 時計の針だけが進んでいく。


 そして——気づいたとき、最初に開いたページからほとんど進んでいなかった。


 結衣は、そっとペンを置いた。


 手が、じんと痺れている。


 無意識に、右手が左の手の甲へ動いていた。


 普通の人には見ることの出来ない紋様。


 指先でなぞると、ひやりとした感触の奥に、かすかな温もりがある。


 昨夜、ノクスの手に重ねた時と同じ温度だった。


 繋がっている。


 そう思ったはずなのに、今夜はその感覚が遠い。


 それでも、触れている間だけ、息が少しだけ楽になる気がした。


「……どうしよう」


 小さく漏れた声は、誰にも届かない。


 でも、手の甲から指を離すことが、なぜかできなかった。


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