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第36話 助けてと言えた夜

 (助けを求めることは、弱さではない。信頼の証だ)


 店内の空気は、数日で確実に変わっていた。


 相変わらず忙しい。

 人が減った分だけ、作業量は増えている。


 それでも——以前のような混乱はなかった。


「補充終わりました」

「値札、ここに戻しておきます」

「台車通ります」


 短い言葉が、自然に飛び交う。


 誰か一人に頼るのではなく、流れが繋がっている。

 迷いがなく、無駄がなく、止まらない。


 結衣はレジから店内を見渡した。


 バックヤードの入口付近に、白いシャツにスラックス姿の男が立っている。


 乃久栖 真旺。


 スーツではなく、上着もない。

 だが、むしろその方が現場に溶け込んでいた。


 袖をわずかにまくり、棚の配置を確認している。

 長身のせいで、ただ立っているだけで目立つ。


「この棚は20センチ左へ」


 低い声。


 店員が慌てて頷き、動かす。

 通路が広がった。


 別の場所では、パートの女性と話していた。


「作業が遅れる原因は何だ」


 責める口調ではない。

 事実を確認する声だ。


「えっと……補充の在庫が分かりにくくて……」


 乃久栖はすぐに棚の中を確認し、メモを取る。


「表示を追加する。今日中に対応する」


 即断だった。


 女性は少し驚いた顔をしてから、ほっとしたように笑った。


「ありがとうございます」


 そのやり取りを見ていた別の従業員が、ぽつりと呟く。


「……話しやすい人だよね」


「怖いけどね」


 小さな笑いが起こる。

 以前にはなかった光景だった。


 乃久栖はそれに気づいているのかいないのか、何も言わず次の場所へ向かう。

 ただ淡々と、必要なことだけをしていく。


 その背中を見ながら、結衣は思った。


 本当に魔王なんだよね、この人。


 怖いはずなのに。

 圧があるのに。

 なのに、不思議と安心する。


 店が回っている。

 ちゃんと、前に進んでいる。


 それは間違いなく、この人のおかげだった。


 ——だったら。


 胸の奥で、何かが静かに動く感覚があった。


 ずっと一人で抱えていた重さが、頭の中でゆっくりと形を変えていく。


 この人になら、言えるかもしれない。

 言っていいのかもしれない。


 そう思った瞬間、手の甲がじんわりと温かくなった気がした。


 ⸻


 その夜、結衣は部屋のドアの前で少しだけ立ち止まった。


 ノクスは、いつも通りリビングで作業しているはずだ。


 深呼吸をひとつ。

 ドアを開ける。


「……ノクス」


「何だ」


 顔を上げないまま答える声。


 結衣は近づいて、テーブルの前に座った。


「確定申告って……知ってる?」


 ノクスがペンを止める。


「聞いたことはある。詳細は知らん」


「一年分の収入とか、経費とか……全部まとめて、国に納める税金を計算して、書類で出す制度なの」


「国への納税申告か」


「うん。うちみたいな個人事業は、自分でやらないといけなくて」


 少し間を置く。


「……お父さんが亡くなってから、誰もやってなくて」


 ノクスは静かに頷いた。


「期限は」


「来週の木曜日」


「資料は」


「帳簿と、レシートの束と……あと、たぶん去年の書類も」


「税理士には連絡したか」


「した。面談の約束はできてるんだけど」


 そこで言葉が詰まる。


 ノクスがペンを置いた。


「……ノクスが夜遅くまで作業してるの、知ってるし」


 声が小さくなる。


「昼間もずっと動いてるのも、知ってる」


 拳をぎゅっと握る。

 膝の上で、指先が白くなるくらい。


「こんなことお願いするの……ダメだと思うけど……」


 それでも、顔を上げた。


「……助けてほしいの」


 沈黙が落ちた。


 ノクスはしばらく何も言わなかった。


 その沈黙が怖くて、結衣は視線を落としかける。


 やがて。


 ふっと、柔らかく笑う気配がした。


「よく自分から助けてと言えたな」


「え?」


 結衣は目を瞬かせる。


「結衣、お前の弱点は人に助けを求められないことにあった」


 赤い瞳が、真っ直ぐに向く。


「だが、私はそれを克服できると——最近のお前を見ていて思っていた」


 胸が、ぎゅっと締めつけられる。


「だから、あえて何も言わなかった」


「……!」


「お前が自分の意思で口にするまで、待つと決めていた」


 待っていた。

 ずっと、見ていた。


 その言葉が、じわじわと胸の奥に染み込んでくる。


「助けを求めることは、弱さではない」


 一拍。


「信頼の証だ」


 言葉が出なかった。


 ノクスはゆっくりと立ち上がり、結衣の前に来た。


 見上げると、いつもより少しだけ表情が柔らかい。


「安心しろ」


 わずかに口元が上がる。


「私を誰だと思っている」


 その声には、揺るぎない誇りがあった。


「世界の覇者——魔王だぞ」


 圧倒的な自信。

 怖いくらいの強さ。


 なのに、なぜかおかしくて、なぜか泣きそうになる。


「たかが一国の税務処理ごときで、私が怯むとでも思ったか?」


 結衣の目に、涙が滲んだ。


 ノクスは最後に、静かに言った。


「すべて終わらせてやる」


 一拍、置いて。


 ほんの少しだけ声を落とす。


「——お前が安心して眠れるようにな」


助けてって言えるの、本当に大事です。

相手を信頼しているからこそ、言える言葉。

だから、日々のコミュニケーションは大事。

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