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第34話 父が止まった場所から

 (父が倒れた月で止まった帳簿。その先は、全部“空白”だった)


 朝の光の中で、何気なく手の甲に目が落ちた。


 うっすらと残る紋様。

 昨夜ノクスと交わした、契約の印。


 触れると、まだ少し温かい気がした。


 気のせいだと分かっていても、口元が少しだけ緩む。


 繋がっている。


 その感覚が、まだそこにあった。


 気持ちを切り替えようと立ち上がり、郵便受けへ向かう。


 中に、見慣れない分厚い封筒が入っていた。


 白くて、硬くて、妙に重い。

 差出人を見た瞬間、指先がぴたりと止まる。


 税務署。


 嫌な予感しかしなかった。


 部屋に戻り、テーブルの上に置く。


 しばらく、開けられなかった。


 まるで中に、良くないものが詰まっているみたいに、ただそこに置かれた封筒を見つめていた。


 深呼吸を一度。封を切る。


 中から出てきたのは、びっしりと文字の並んだ書類の束だった。


 表紙に、大きく書かれている。


【所得税及び復興特別所得税の確定申告】


「…………」


 理解した瞬間、喉の奥がきゅっと縮んだ。


 そうだ。今年は。


 父が亡くなってから、初めての——店の確定申告。


 椅子に座ったまま、動けなくなる。


 紙の束が、やけに重かった。


 私がやるの?


 当然だ。


 今、店の責任者は自分なのだから。


 ページをめくる。


 専門用語、数字、記号。


 知らない言葉、知らない形式、知らない世界が、次々と目の前に広がっていく。


 無理だ、と思った。


 視界が、ゆっくり白くなっていく。




「結衣」


 声に、肩が跳ねる。


 振り向くと、いつの間にか豊が立っていた。


「何してんだ」


 結衣は答えられない。


 豊はテーブルの書類に目を落とした。


 一番上の紙、大きな文字。


「……かくてい……しんこく?」


「……っ」


 言葉が出ない。


「何だそれ」


 結衣はしばらく黙ったまま、やがて小さく言った。


「……税金のやつ。一年分の収入とか、経費とか……全部まとめて、国に出す書類」


 豊は書類の束を見つめる。


「……それ、お前がやるのか」


 結衣は、ゆっくり頷いた。


「今年は……私しかいないから」


 沈黙。


「期限は」


「……来月の十五日」


 また沈黙が落ちた。


 結衣は書類を抱きしめるように持つ。


「……どうしよう」


 初めて、本音が漏れた。


 声が、自分でも気づかないうちに震えている。


「何からやればいいのかも分からない。帳面はあるけど……途中までしか書いてないし……税理士さんにも連絡しなきゃいけないし……お金も……」


 言葉が続かない。


 豊はしばらく考えてから言った。


「手伝うか」


 結衣は首を振る。


「無理だよ……」


 笑おうとして、笑えない。


「数字とか、苦手でしょ」


「……そうだな」


 否定しない豊が、少しおかしくて、少し悲しかった。


「だから……どうしよう」


 完全に迷子の声だった。




 その夜、結衣の部屋の明かりは消えなかった。


 押し入れの奥から、古い段ボール箱を引っ張り出す。


 埃の匂いがした。


 中には、父が使っていた帳簿が入っていた。


 分厚いノート。手書きの数字。


 ページをめくる。


 日付、仕入れ、売上、支出。


 父の字とノクスの訂正が、同じページに並んでいる。


 ミミズの群れと、刃物で引いたような直線。


 これほど正反対の二人が、同じ帳簿の上で共存しているのが、少しおかしかった。


 でも、笑えたのは一瞬だけだった。


 お父さん。


 胸が、じわりと痛くなる。


 次の帳簿を開く。


 途中まで書かれていて、そこで止まっていた。


 父が倒れた月。


 そのまま、空白。


 しばらく、その空白を見つめていた。


 次のページに行けなかった。


 何度もめくりかけて、やめた。


 ただの空白なのに、そこに何かが詰まっているような気がして、うまく通り過ぎることができなかった。


 さらに別のノートを手に取る。


 ノクスに教わりながら、ぎこちなく書き始めた帳面だ。


 でも、その前の期間は——完全に抜け落ちていた。


 机の上には、未整理のレシートの束。


 輪ゴムでまとめられただけのもの、袋に入ったままのもの、日付もバラバラなもの。


 こんなの。


 指先が震える。


 どうやってまとめるの。


 ノクスが整理したのは、すでに記録されていた帳簿だけだった。


 この空白の期間は、誰も触れていない。


 つまり——全部、自分でやらなければならない。


 時計を見る。


 深夜を回っていた。


 それでも、手は止まらない。


 止めたら、もう動けなくなる気がした

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