第33話 一か月分の、約束
(拒めば終わる契約だ——そう言われて、迷う理由なんてなかった)
その夜、家の中は静かだった。
全員が眠っている時間。
時計の針の音だけが、やけに大きく聞こえる。
眠れない。
布団の中で何度も寝返りを打って、
結衣は小さく息を吐いた。
気にしないって決めたのに。
頭の中に、昼間の声が繰り返し蘇ってくる。
外部の人のくせに。
現場も知らないくせに。
あの人のせいで。
胸の奥が重かった。
そっと起き上がる。
喉が渇いた、という言い訳を作って部屋を出た。
廊下は暗い。
けれど、リビングの方から光が漏れていた。
また。
ドアの隙間から覗くと、
テーブルに資料を広げたまま、
ノクスが何かを書き込んでいる。
眠らない人だ、とぼんやり思う。
「……こんな遅くまで」
思わず声が漏れた。
ノクスが顔を上げる。
「結衣か。眠れないのか」
「……うん、ちょっと」
正直に答えると、ノクスはペンを置いた。
「話してみろ」
「え?」
「お前がそういう顔をする時は、何かを我慢している時だ」
逃げ道を塞がれたような気がした。
「……今度は何を言われた」
「違うの」
首を振る。
「私じゃなくて……」
一拍、置いて。
「ノクスのことを言われてて」
沈黙が落ちる。
ノクスは驚いた様子もなく、ただ静かに頷いた。
「それは想定内だ。お前が気に病むことではない」
分かっている。
分かっているのに、胸が痛い。
「……でも」
結衣は少しだけ迷ってから言った。
「ねぇ、ノクス」
「何だ」
「なんで、そんなに冷静でいられるの?」
ノクスは一瞬だけ視線を落とした。
「慣れだ」
「慣れ……?」
「長く生きていれば、感情に任せた判断が必ずしも良い結果を生まないことを知る」
静かな声だった。
「怒りも、不安も、焦りも——多くは視野を狭める」
結衣は昼間のことを思い出す。
胸が痛くなる。
「……でも」
小さく言う。
「人間は、そんなに長く生きられないよ」
赤い瞳がわずかに揺れた。
「……その通りだ」
声が、ほんの少し柔らぐ。
「百年にも満たない生で、常に正しい判断を求める方が無理というものだ」
一拍。
「だから私は、人間が感情的になることを責めない」
結衣は顔を上げる。
「仕方のないことだからだ。限られた時間の中で、全てを理解し受け入れるのは困難だ」
そして、低く言った。
「……お前が今日焦ったのも、当然のことだ」
言葉が続かなかった。
「——礼を言う」
結衣は目を瞬いた。
「え?」
ノクスは少しだけ視線を落とした。
「私は魔王という立場ゆえ、幾度となく非難されるようなこともしてきた」
低い声。
「それが結果として正しかったとしても、だ」
一拍。
「だが」
ほんのわずかに、口元が緩む。
「こうして誰かに想われるのは……くすぐったくて、不思議と心地が良いものなのだな」
胸が、きゅっとなる。
ずるい。
そんなことを、こんな顔で言うなんて。
言葉が出ないまま黙っていると、
ノクスの視線がふと動いた。
結衣の手の甲へ、静かに落ちる。
「——契約印」
低い声。
「そろそろ更新の時期だ」
「……更新?」
聞き慣れない言葉だった。
「これ、消えたりするの?」
「正確には、効力が弱まる」
淡々とした口調。
「この契約は恒久ではない。一定期間ごとに、双方の同意による再締結が必要になる」
「……同意?」
「強制はしない」
静かな断言だった。
「お前が拒めば、ここで終了だ」
思いがけない言葉だった。
「……え」
「契約は拘束ではない」
赤い瞳が、真っ直ぐに向く。
「双方の利益のための合意だ。どちらか一方だけが不利益を被る形は、合理的ではない」
そんな理由?
でも、不思議と胸が温かくなった。
つまり——
結衣が望まなければ、この繋がりはここで終わる。
ノクスは、引き止めない。
強制もしない。
それが、分かってしまった。
「……更新、お願いします」
小さく言うと、
ノクスはわずかに目を細めた。
「了解した」
差し出される手。
大きくて、少し冷たい手。
結衣も、自分の手を重ねる。
指先が触れた瞬間、
淡い光が手の甲に浮かび上がった。
ひやりとした感触だった。
それなのに、じんわりと温かい。
不思議な熱が、指先から手首へ、ゆっくりと広がっていく。
「……っ」
息が詰まる。
ノクスの吐息が、指先にかかる距離だった。
俯いた横顔が、いつもより近い。
紋様が静かに形を整えていくのを、
二人ともしばらく黙って見ていた。
「これで更新は完了だ」
手が離れる。
温もりが遠のいた。
結衣は思わず、手の甲の印に触れた。
前よりも少しだけ、はっきりしている気がする。
「……これ、どれくらいで弱くなるの?」
「約一か月」
さらりと答える。
「状況によっては前後するが」
一か月。
妙に具体的で、逆に恥ずかしくなった。
また一か月後に、こうして手を重ねることになる。
そう思うと、なぜか心臓が落ち着かない。
でも。
手の甲をそっと撫でると、
さっきまでの重さが少し軽くなっていた。
理由は分からない。
ただ、繋がっている。
その感覚だけが、はっきりとそこにあった。
「……ありがとう」
小さく呟くと、
ノクスは一瞬だけ眉を上げた。
「礼を言われることではない」
少し間を置いて、声を落とす。
「契約は双方の利益のためにある」
合理的な言葉だった。
でも。
その声はどこか柔らかかった。
いつもの断定とは少し違う、
何かを隠しているような柔らかさ。
この人、本当に魔王なのかな。
怖い存在のはずなのに。
支配する側のはずなのに。
今、感じるのはただの安心だった。
結衣はもう一度、印に触れる。
温かい。
ひやりとしていたはずなのに、
今はもう温かかった。
それが、妙に特別なものに思えて。
結衣はしばらく、その感触から手を離せなかった。
今回はちょっと甘め回でした。
ノクスは完全に「理想の上司像」を詰め込んでます。
怒らない、でも逃がさない。ちゃんと考えさせるタイプ。
正直、こんな上司いたら惚れますよね(笑)
少しでも「いいな」と思っていただけたら、
応援やブックマークで教えてもらえると嬉しいです。
めちゃくちゃ励みになります!




