第32話 魔王は怒らない
(怒られる方が楽だった。この人は、逃がしてくれない)
店内は混んでいた。
レジ前の列は途切れず、呼吸する暇もない。
「次のお客様どうぞ」
声が少し掠れているのが、自分でも分かった。
商品を通す。袋を開く。
次の客。また次。また次。
早くしないと。
背中に視線を感じる。
後ろの列のため息。
壁の時計。
手が、少しだけ震えていた。
「……合計、3,428円です」
客が五千円札を差し出す。
「五千円お預かりします」
機械が金額を表示する。
いつもなら声に出して確認する。
今日は、しなかった。
硬貨を掴んで渡す。
「ありがとうございました」
客が去る。
次の客。また次。
数分後、さっきの客が戻ってきた。
嫌な予感が、背骨を這い上がった。
「お釣り、足りないんだけど」
心臓が落ちる感覚がした。
「……申し訳ございません」
レジを確認する。
指が冷たい。
数字がうまく読めない。
「……72円不足しております」
「やっぱり」
舌打ち。
周囲の視線が刺さる。
「ちゃんとしてよね」
「申し訳ございません」
頭を下げる。何度も。
客が去った後も、顔を上げられなかった。
後ろの列の視線が、背中にずっと刺さっていた。
やっちゃった。
焦りは消えないまま、次の客を迎える。
カゴの中は大量の商品だった。
惣菜、牛乳、卵、冷凍食品。
丁寧に、丁寧に。
分かっているのに、手が速くなる。
袋を二つに分ける。
重いものを下に、軽いものを上に。
そのはずだった。
客は無言で袋を掴み、去っていく。
数分後、サービスカウンターの方から騒ぎ声が聞こえた。
「これ、どうしてくれるの? 潰れちゃってるじゃない!」
結衣の手が止まる。
カウンター越しに見える袋。
透明なビニール越しに、潰れた惣菜パックが見えた。
あ。
自分が詰めた袋だった。
視界が狭くなる。
「申し訳ございません。ただいま新しいものと交換させていただきますので」
頭を下げているのは、いつも優しく声をかけてくれるパートのおばさんだった。
何度も、何度も頭を下げている。
「全く、ちゃんと教育しときなさいよね」
吐き捨てる声。
おばさんはさらに深く頭を下げた。
「申し訳ございません」
私のせいだ。
心臓が、見えない何かに鷲掴みにされる感じがした。
足が動かない。
自分が代わりに謝りに行かなければならないのに、
体が言うことを聞かなかった。
客は苛立った様子で商品を受け取り、去っていく。
おばさんは小さく息を吐いて、潰れたパックを片付け始めた。
その横顔が、妙に穏やかだった。
だから余計に、つらかった。
次の客を呼ぶ声が出ない。
喉が閉まっている。
いつもなら、こんなことしない。
なんで。
なんで今日に限って。
視界が滲み始めたとき、低い声が落ちた。
「結衣」
振り向くと、乃久栖 真旺が立っている。
「交代だ」
反論する余裕はなかった。
バックヤードの椅子に座った瞬間、全身から力が抜けた。
指先がまだ震えている。
息を吐いても、肩の力が戻ってこない。
乃久栖は向かいに立ったまま言った。
「何が起きた」
責める声ではなかった。
ただ、事実を求める声だった。
「……お釣りを、間違えて……」
「なぜ」
「……焦って」
「なぜ焦った」
言葉に詰まる。
「……列が長くて……待たせちゃって……」
乃久栖は頷いた。
「次のミスは」
「袋詰め……」
「なぜ」
「……同じです」
小さな声が出た。
「早くしなきゃって……」
沈黙が落ちる。
乃久栖はしばらく何も言わなかった。
ただ、立っていた。
その静けさが、責められるよりも苦しかった。
やがて、静かに言う。
「怒られると思ったか」
結衣は目を瞬かせた。
「……え?」
「怒ることは簡単だ。だが、結衣に怒る必要はない」
視線が真っ直ぐに向けられる。
「お前はすでに原因を理解している」
胸が、痛いほど締めつけられた。
「同じミスを繰り返さない方法も、考えられるはずだ」
逃げ場がない。
でも、優しい。
この人の厳しさはいつもそうだ。
追い詰めるのではなく、立たせようとしている。
「ミスが悪なのではない」
一拍。
「改善しないことが悪だ」
結衣の目に、涙が滲む。
「では問う」
乃久栖は低く、静かに続けた。
「焦りやすい状況で、焦らず作業するにはどうすればいい」
すぐには答えられなかった。
「……分からない」
「考えろ」
声は厳しい。
でも、突き放してはいない。
「列は制御できない。客の感情も制御できない。では、何を制御できる」
結衣は唇を噛む。
考える。
必死に。
やがて、小さく言った。
「……自分の動き」
乃久栖が頷く。
「具体的には」
「……確認を、声に出す……とか」
「続けろ」
「……お釣りを渡す前に、必ず金額を見る。袋詰めは、一回止まって配置を確認する」
言いながら、少しずつ頭が整理されていく。
さっきまで狭くなっていた視界が、
少しずつ戻ってくる感じがした。
乃久栖は静かに言った。
「それでいい」
そして、ほんのわずかに声を落とす。
「遅くても問題はない」
結衣が顔を上げる。
「客が不満を持つことはある。だが、ミスによるクレームよりは軽い」
一拍。
「お前が壊れることに比べれば、なおさらだ」
胸の奥が、熱くなった。
乃久栖は最後に言った。
「結衣」
「はい」
「次は出来る」
断言だった。
迷いがない。
慰めではなく、ただ、事実として言っている声だった。
「なぜなら、もう理解したからだ」
涙が、こぼれた。




