表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
37/96

第31話 人が減った日、店は動き出した

(怖かった人がいなくなって、一番困っているのは残った側だった)


 店内は、いつもと同じ朝のはずだった。


 同じBGM。

 同じ蛍光灯の光。

 同じ開店準備の音。


 違うのは、人の数だけだった。


 バックヤードに妙な静けさがある。

 誰も雑談をしていない。笑い声もない。

 物音だけが、やけに大きく響いていた。


 結衣はエプロンの紐を結びながら、無意識に人数を数えた。


 少ない。


 分かっている。分かっているのに、胸がざわつく。


 昨日までいた人が、いない。


 古株のパートは正式に退職した。

 面談の翌日、出勤せず、そのまま辞めたのだ。


 店長は止めなかった。

 止められなかったのかもしれない。


 その空白が今、店全体にのしかかっていた。




「……集まってください」


 店長の声で、従業員がバックヤードに集まる。


 人数は明らかに少なかった。


 古株の退職だけではない。

 契約の見直しに伴い、出勤率が著しく低い数名も更新対象外となったのだ。


 欠員は、想像以上に大きかった。


 誰も目を合わせない。


 そこに、黒いスーツの男が立っていた。


 乃久栖 真旺。


 結衣の胃が、また痛くなる。


 当然のようにいる。

 まるでずっと前からここにいた人みたいに、何の違和感もなく立っていた。




「本日より、店舗運営の改善を開始します」


 低く、静かな声。


「なお、今はまだ機械の導入は行いません」


 誰かが小さく顔を上げる。


「まず行うのは、現場の整理と業務の標準化です」


 一拍。


「人が減った今こそ、必要になる」


 空気が固まった。


 店長が拳を握る。


「……正直に言います」


 震えないように言葉を選んでいるのが分かった。


「昨日の退職で、現場は厳しくなりました」


 誰も反応しない。


 でも、全員が聞いていた。


「ですが、このまま以前と同じやり方では回りません」


 顔を上げる。


「だから、やり方を変えます」




 まず始まったのは、片付けだった。


「この段ボールは何ですか」


 乃久栖が指差したのは、バックヤードの隅。


 長年そこにある、誰も触らない何かだった。


 誰も答えられない。


「……分からない物は不要物です」


「え、でもそれ」


「一年以上使っていない。今後も使いません」


 言い切る。


 沈黙が落ちて、誰かがぽつりと言った。


「……捨てるんですか」


「はい」


 即答。


「通路を確保します」


 乃久栖はメジャーを取り出した。


「現在の幅、67センチ」


 床にテープを貼る。


「目標、120センチ」


「……そんなに?」


「台車がすれ違える幅です。現在は、片方が避ける必要がある」


 淡々と続ける。


「避ける時間は、作業時間ではありません」


 誰も否定できなかった。


 正しい、と結衣は思った。


 正しいのに、怖い。


 何かが変わっていく音がして、

 それが必要なことだと分かっていても、

 足元がゆっくりと動いているような感覚があった。




 重い空気のまま、作業が始まった。


 物を移動し、棚を動かし、不要物をまとめていく。


 誰も文句は言わない。


 でも、明るくもない。


 ぽつりと声が落ちた。


「……あの人がいれば、もう終わってたのに」


 誰の言葉か分からなかった。


 けれど、全員の胸に刺さった。


 古株は確かに厳しかった。怖かった。


 でも、いなくなって困るのも事実だった。


 あの人がいた場所が、今こんなに大きく空いている。


 結衣の手が、止まりかける。


「止まるな」


 低い声だった。


 乃久栖が振り向かずに続ける。


「比較は無意味だ。今いる人員で、最適を作る」


 店長が小さく頷いた。




 次に、乃久栖が棚にラベルを貼り始めた。


【文具】【値札】【清掃】【補充用】


「使ったら戻す。戻らなければ、次の者が困る」


 短い説明だった。


 誰かが言う。


「……これ、分かりやすい」


 別の人が言う。


「今まで全部バラバラだったもんね」


 ほんの少しだけ、空気が動いた。


 続いてA4の紙が掲げられる。


「開店前チェックリスト」


 たった5項目だった。


「多くすると守られない。少ないと守られる」


 店長が苦笑する。


「……確かに」




 昼前になる頃、結衣の足が重くなってきた。


 体力ではなかった。


 精神が削られている感覚だった。


 人が少ない。仕事は多い。空気は張り詰めている。


 レジに立ちながら思う。


 無理かも。


 そのとき、乃久栖が通りかかった。


 一瞬、視線が合う。


 ほんのわずかに眉が寄った。


「結衣」


 小声。


「休憩に入れ」


「え、でも」


「命令だ」


 有無を言わせない低い声だった。


 結衣は思わず従ってしまった。


 ⸻


 椅子に座った瞬間、力が抜ける。


 疲れた。


 それだけだった。


 何も考えられない。


 ドアが開いた。


 乃久栖が入ってきて、コップを差し出す。


「糖分」


 スポーツドリンクだった。


「……ありがとう」


 一口飲むと、体が少し戻ってくる感じがした。


 乃久栖は腕を組んだまま言う。


「初日はこうなる」


「……うん」


「人が減った直後は、特に負荷が大きい」


 淡々とした分析の声だった。


 でも。


「お前はよくやっている」


 胸がきゅっとなる。


「……私、何もしてない」


「立っていただけでも価値がある」


 真顔で続ける。


「欠けていない。それだけで戦力だ」


 涙が出そうになった。


 こういう言い方をする。


 感情ではなく、合理で包んで渡してくる。


 それなのに、ちゃんと届く。


「……ズルい」


 小さく呟くと、乃久栖は少しだけ声を落とした。


「今日は、早めに帰れ」


「え?」


「無理をして倒れれば、本末転倒だ」


 結衣は小さく笑った。


「魔王なのに、優しいね」


「合理的だ」


 即答。


「戦力は維持する」


 言い方だけは相変わらずだった。


 でも、それでいい。


 そういう人だと分かっているから、救われる。


 ⸻


 店を出ると、空気が冷たかった。


 振り返ると、店の灯りがやけに眩しい。


 大変なこと、始まっちゃったな。


 その横に、黒い影が並んだ。


「送る」


「え?」


「今日は疲労が大きい」


 当然のように言う。


 二人で歩き出す。


 夜の住宅街を、並んで歩く。


 足音だけが続く。


 しばらく無言だった。


 やがて、ノクスがぽつりと言った。


「店は、壊れていなかった」


 結衣が顔を上げる。


「人が残っている」


 一拍。


「それだけで、再建は可能だ」


 結衣は少しだけ笑った。


「……うん」


「結衣」


「なに?」


「今日はよく耐えた」


 ぽん、と頭に手が置かれた。


 軽く、優しく。


「よし」


 短い一言だった。


 それだけなのに、胸がいっぱいになる。


 頑張ろう、と思った。


 言葉にはしなかったけれど、

 ちゃんとそう思えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ