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第30話 その人が辞めた日

 (長く働いた人ほど、一番報われない形で終わることがある)


 店の奥にある、小さな事務室。

 普段は物置のように使われている場所に、今日だけ机と椅子が向かい合わせに置かれていた。


 壁の時計の秒針だけが、やけに大きく聞こえる。


 店長は手元の書類を何度も整え直していた。

 深呼吸をする。

 それでも、指先の震えは止まらない。


 コンコン。


「……どうぞ」


 扉が開いた。


 古株のパートが入ってくる。

 腕を組み、椅子にもたれかかるように座る。


 値踏みするような目が、店長の顔をひと通り見てから外れた。


「で? 何を聞くの?」


 刺のある声だった。

 けれど以前のような勢いはなく、どこか疲れた色をしている。


 店長は、ゆっくりと口を開いた。


「今日は、これまでの勤務状況と、今後についてお話ししたくて」


 書類を差し出す。


 古株はそれを一瞥して、鼻で笑った。


「評価? 今さら?」


「……はい」


 沈黙が落ちる。


「まず、これまで長く働いていただいたことには、本当に感謝しています」


 古株は何も言わない。


「ただ——」


 言葉が詰まる。


 それでも、逃げなかった。


「威圧的な言動や、感情的な叱責について、複数の相談が寄せられています」


 空気が固まった。


 古株の目が、細くなる。


「……誰が言ったの?」


「個人名は出せません」


「はぁ?」


 声が低くなる。


「私に直接言えないから、こそこそ言ってるんでしょ?」


 店長は静かに首を振った。


「そういう問題ではありません」


「じゃあ何よ」


「職場の環境として、改善が必要だと判断しました」


 古株の指先が、机を叩く。


「私が悪いって言いたいわけ?」


 店長は目を逸らさずに答えた。


「現状のままでは、継続は難しいと考えています」


 その瞬間、空気が壊れた。


「……は?」


「契約更新については、改善が見られない場合——」


 言葉を選ぶ。


「更新を行わない可能性があります」


 沈黙。


 数秒。

 十秒。


 やがて。


「……ふざけないでよ」


 怒鳴り声ではなかった。

 かすれていた。


「今まで、誰がこの店支えてきたと思ってるの?」


 店長は答えない。


「若い子はすぐ辞めるし、責任ある仕事は全部こっちに回ってきて」


 机を叩く手が震えている。


「休みだってまともに取れなかったのよ!」


「なのに今さら、あんたたちが働きやすい職場にします、ですって?」


 乾いた笑いが漏れた。


「……笑わせないで」


 店長の手が、膝の上でぎゅっと握られる。


「それは……分かっています」


「分かってない!!」


 涙が一粒、机に落ちた。


 本人は気づいていないようだった。


「誰も助けてくれなかったじゃない」


 声が変わっていた。


 怒りではなく、ただ——

 長い時間をかけて積み上げてきた疲労が、ようやく言葉になったような声だった。


「全部、私がやるしかなかったじゃない」


 もう怒っていなかった。


「今さら……今さら何なのよ……」


 肩が震える。


「じゃあ……私は何だったの」


 店長は、ゆっくりと答えた。


「この店を支えてくださった方です」


 顔が歪む。


「だった、って何よ……」


 沈黙。


「……もういい」


 椅子を引いて立ち上がる。


「そこまで言うなら、辞めます」


 店長の目が見開かれた。


「待ってください、今すぐという話では——」


「いいの」


 振り返らない。


「どうせいなくても回るんでしょ」


 ドアに手をかける。


「更新しないとか言われるくらいなら、こっちから辞める」


 一拍。


「……お世話になりました」


 扉が閉まった。


 静かな音だった。


 それなのに、店長には重く響いた。


 机の上に、小さな水滴がいくつも残っている。


 ——涙だった。


 


 バックヤードで、その人はロッカーの前に立ち尽くしていた。


 何もしていない。


 ただ、そこにいる。


 荷物を出すでもなく、動くでもなく、ロッカーの扉を見つめたまま、時間だけが過ぎていく。


 結衣は、そっと近づいた。


「……大丈夫ですか」


 返事はない。


 しばらくして、ぽつりと言葉が落ちてくる。


「……あんたは、いいわよね」


 結衣は何も言えなかった。


「まだ若いし、これからいくらでもやり直せる」


 ロッカーに手をつく。


 その手に、力が入っていた。


「私なんか、ここしかなかったのに」


 初めて見る顔だった。


 いつもの怒声も、鋭い目つきも、どこにもない。


 ただ、疲れた人がそこに立っていた。


「……怖かったのよ」


 小さな声が、バックヤードの空気に溶けていく。


「辞めてしまったら、どこにも私の居場所がなくなる気がして」


 結衣の胸が締めつけられる。


 言葉を探したが、何も出てこなかった。


「だから……強くしてるしかなかった」


 一拍。


「ごめんね」


 振り向かないまま言った。


「きつく当たって」


 謝罪の言葉は短かい。


 それなのに、長い時間の重さを持っていた。


 結衣はただ、その背中を見ていることしかできなかった。


 ロッカーが開く。


 荷物を取り出す手は、もう震えていなかった。


「今日で終わりにするわ」


 そして、小さく笑った。


「やっと休める」


 その笑顔は、どこか空っぽだった。


 長い時間を戦い続けてきた人が、武器を置いた顔をしていた。


 勝ち負けではなく、ただ——終わった顔だった。


 結衣は、その背中が遠ざかるのを、ずっと見ていた。


 何か言うべきだったかもしれない。


 でも。


 何を言っても届かない場所に、

 もうその人はいた。



ここまで読んでいただきありがとうございます。


少々重い展開が続いているため、

箸休めとして、ちび魔王ノクスの挿絵をXにて公開しています。

気になる方はぜひご覧ください

https://x.com/maou_nox

@maou_nox


また、本作を気に入っていただけましたら、

ブックマークや評価でのご支援をいただけると幸いです。


次回も、どうぞお付き合いください

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