第29話 じゃあ、私は何なのよ
(正しいはずの言葉が、誰かを壊すことがある)
店内のバックヤード。
いつもは雑談と作業音が混ざる場所が、今日は妙に静かだった。
店長が呼び出したのだ。
従業員たちは顔を見合わせながら集まり、やがて小さな半円のように並ぶ。
誰も最前列には立たない。
壁際に寄る者、棚の影に入る者。
何かが始まる前の、あの独特の緊張。
店長は、しばらく何も言わなかった。
深く息を吸う。
胸が上下するのが、遠くからでも見える。
「……これから、店のやり方を変えます」
空気が、止まる。
ざわり、と小さな波紋のように緊張が広がる。
隣の誰かが息を呑む音。
店長は、逃げずに続けた。
「今までのやり方では、もう限界です」
誰も声を出さない。
「人手が足りない。忙しい。余裕がない」
苦い笑み。
「……それは事実です」
一拍。
「ですが」
声が、わずかに強くなる。
「それを理由に、何も変えずに続けることは——もう出来ないと判断しました」
視線が、従業員一人一人へ向く。
目が合った者は、わずかに視線を落とした。
「皆さんには負担をかけます。慣れないことも多いと思います」
店長は続ける。
「正直に言います。最初は、今より大変になるかもしれません」
ざわつく気配。
だが、目は逸らさない。
その目が、少し赤い、と結衣は思った。
「それでも」
拳を、机の上で静かに握る。
「この店を、立て直したい」
弱々しい。
それでも——本物だった。
「ここで働く皆さんが、無理をし続けなくても回る店にしたい」
誰かが、息を呑む。
「だから、協力してください」
頭を下げる。
深く、本気で。
下げた頭が、上がらない。
その時間が、言葉よりも重い。
「まず第一に、雇用契約書を見直します」
顔を上げる。
「業務内容、勤務条件、責任範囲を明確にします。今まで曖昧だった部分は、すべて整理します」
一部がざわつく。
「全員と個別に面談を行います。困っていること、不満、改善案——何でも聞かせてください」
そして。
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「威圧的な言動、過度な叱責、職場の空気を悪化させる行為については——」
一拍。
「今後、改善が見られない場合、契約更新を行いません」
完全な沈黙。
誰も動かない。
だが、その意味は全員に伝わっていた。
——だからこそ、誰も何も言えない。
「これは脅しではありません」
店長の声が、わずかに震える。
「店を守るための決定です。一部の人だけが我慢する職場は、長く続かないと判断しました」
少しだけ、視線が和らぐ。
「もちろん、皆さんを追い出したいわけではありません」
「一緒に、働きやすい店にしたいんです」
資料を一枚、掲げる。
「意見箱を設置します。良い提案があれば、採用します。この店は、皆さんの力で成り立っています」
静かな声。
だが、芯があった。
「だから——一緒に作り直していきたい」
長い沈黙。
誰かが、恐る恐る手を挙げる。
「……本当に、意見言っていいんですか?」
店長は、迷わず頷いた。
「はい。お願いします」
その瞬間。
張り詰めていた空気が、ほんの少しほどける。
午前中に行われた説明は、まだ現場に完全には浸透していなかった。
玄関に掲示された紙の前に、人だかり。
誰も声を大にして読まない。
けれど、全員が目を逸らせない。
――店舗運営改善に伴う新制度の導入について
面談の実施、業務マニュアルの整備、契約内容の見直し、評価制度の導入。
紙の一番下に、店長の名前。
そのときだった。
「——ふざけないでよ!!」
店内に響き渡る怒声。
振り返らなくても分かる。
あの声。
古株のパートが、ずかずかと歩み寄ってくる。
足音が床を叩くたびに、空気が縮む。
掲示を指差す。
指先が、わずかに震えていた。
「何これ!? 誰が決めたの!?」
店長が奥から出てくる。
顔は強張っていたが、足は止まらない。
「……私です」
「はぁ!? 急に何なのよ!!」
周囲の空気が、凍る。
誰もが、壁に溶けるように身を縮めた。
「面談? 評価? 契約見直し!? 今までそんなのなかったじゃない!!」
「これから必要になると判断しました」
「必要!? 誰にとって!?」
鋭い視線が周囲に向く。
支持を探す目。
だが——誰も応じない。
「私たちの仕事増やしたいだけでしょ!?」
「だからです」
店長の声は低い。
「え?」
「人手が足りないからこそ、今のままでは回らない。属人化をなくし、誰でも同じ水準で働ける仕組みを作る」
古株は鼻で笑った。
「何それ。机上の空論じゃない」
一拍。
「現場知らない人が考えたんでしょ?」
(……ノクス)
結衣の胸が、どくりと鳴る。
店長は答えない。
「大体ねぇ!!私がいなきゃ、この店回らないでしょ!?」
——完全な静寂。
店長は、ゆっくりと言った。
「あなたがいなくても回る仕組みにするのが、今回の改革です」
空気が、凍る。
「……は?」
「誰か一人に依存する状態は、組織として健全ではありません」
淡々と。
感情がない。
——それが、残酷だった。
「なによ、それ……」
声が落ちる。
さっきまでの怒声とは、まるで違う。
「私が今までどれだけ働いてきたか、分かって言ってるの?」
「分かっています」
「分かってるなら、こんなこと言えるわけないでしょ!!」
怒声が跳ねる。
「若い人たちはすぐ休むし! 何もできないし! 結局、私が全部やってきたのよ!!」
視線が結衣に突き刺さる。
「そうでしょ!? 稲宮さん!!」
全員の視線。
結衣は、息を詰めた。
逃げ場がない。
言葉を探す。
でも——
どちらを選んでも、誰かを傷つける。
そのどちらでもない場所は、
ここには、ない。
「……」
古株が舌打ちする。
「ほらね!! 誰も何も言えないじゃない!!」
「だからこそ、仕組みを変えるんです」
店長の声は静かだった。
「もう、誰か一人が背負う必要はありません。これからは、全員で回します」
肩が震える。
怒りか。
悔しさか。
それとも——
「……じゃあ、私は何なのよ」
小さな声。
誰にも向けられていない声。
空気が、変わる。
「今までの私は、何だったの」
誰も動けない。
その声は、怒りではなかった。
積み重ねてきたものが、崩れる音。
正しさではなく——
ただ、懸命だった時間。
それだけは、本物だった。
結衣には、それが分かる。
間違っていたかもしれない。
それでも、嘘ではない。
その人の、長い時間。
店長は、ゆっくりと頭を下げた。
「この店を支えてくださった方です」
沈黙。
「だからこそ、無理をさせ続ける状態を終わらせたい」
古株の顔が歪む。
「……そんなの、今さら」
言葉が、続かない。
やがて。
吐き捨てるように。
「勝手にすればいいじゃない」
誰も動けない。
誰も、何も言えない。
ただ——
静かな店内に。
レジの電子音だけが、何も知らないように、響く。
ちょい重めな回が続きます。何かを新しく変えていくのって、本当に大変なんですよね。
特に長年同じことの繰り返しだった場合、特に変えるのが難しい。
でも、ずっと同じやり方じゃ、通用しなくなっていく時が必ず来るんです。




