第28話 職場に魔王が来た。終わった。
(職場に、絶対に来てはいけない男が来た)
バックヤードのドアが開く音がした。
「ちょっと聞いた!?」
「見た!?」
「ねぇ今の誰!?」
休憩室の空気が、妙にざわついている。
エプロンを結び直しながら、結衣は首を傾げた。
「どうしたんですか?」
一斉に振り向く先輩たち。
その目が、普段とは明らかに違う光り方をしていた。
「結衣ちゃん!」
「それがね!!」
一人が声を潜める。
——顔はまったく潜めていない。
「すっごいイケメンが店長と一緒にいるのよ!」
「は?」
もう一人が身を乗り出す。
カウンターに両手をついて、完全に前のめりだった。
「あれは反則よ……」
「顔が良すぎる……」
「なんか目が怖かったけど」
別の人が胸を押さえる。
「私、一瞬呼吸止まったわ」
「福眼だった……」
「いや単に見つめられただけでしょ」
結衣の脳裏に、ひとりの顔が浮かぶ。
(……まさかね)
その時。
バックヤードへ続く廊下の奥、
普段使われない応接室のドアが開いた。
ぎぃ、と重たい音。
全員の視線が向く。
先に出てきたのは店長だった。
その、後ろ。
黒いスーツの男。
長身。
無駄のない姿勢。
ただ廊下に立っているだけなのに、空気の密度が変わった。
威圧しているわけではない。
ただ、そこにいる。
それだけで、周囲が自然と距離を取るような存在感だった。
先輩の一人が、小声で言う。
「ほら」
(……)
(……)
(……ノクス)
脳が、理解を一瞬拒否した。
(オイィィィィ!?)
(ちょっと待って!!)
(何してんの!?)
(なんでスーツ!?)
(なんで店長と!?)
(なんでここ!?)
内心が嵐になっている間も、足は動かなかった。
——動けなかった。
その時。
ノクスの視線が、まっすぐこちらを捉えた。
人混みの中でも、迷わず見つけた目だった。
一歩、近づいてくる。
周囲の先輩たちが、音もなく割れる。
誰も止めようとしない。
——止められる雰囲気ではなかった。
結衣の前で、止まる。
低く、言った。
「結衣」
(名前呼ぶなぁぁぁ!!)
「説明は後でする」
そして。
当然のように。
ぽん、と頭に手が乗った。
軽く、撫でる。
完全に“親しい者への仕草”だった。
心臓が、一拍余計に跳ねる。
この前も同じ手が、同じ場所に触れた。
思い出す前に打ち消そうとして——
打ち消せなかった。
「無理はするな」
それだけ言って、通り過ぎていく。
静寂。
廊下の先に、黒いスーツの背中が消えて。
——数秒。
爆発した。
「きゃーーーーーーー!!!」
「今の誰!?!?」
「結衣ちゃん!!」「ちょっと!!」
「え、え、彼氏!?」「良い人なの!?」「いやもうあれ絶対そうでしょ!!」
「イケメンすぎる!!」「俳優!?社長!?何者!?」
四方八方から声が飛んでくる。
囲まれている。
逃げ場がない。
「い、いや、あの……」
「結衣ちゃんやるわねぇ……」
「隠してたの!?」「ずるい!!」「紹介して!!」
声が出ない。
頭を撫でられた感触が、まだ残っている。
今すぐどこかに仕舞いたいのに、
「彼氏!?」の声で、何度も引き戻される。
(おわた)
思考が、白くなる。
(私の……平穏な職場人生……)
遠くなっていくノクスの背中を思い浮かべながら。
(終わった……)




