第95話 その手を、離せなかった
(初めての契約が決まった、その瞬間。世界から引き剥がされるように消えた)
二週間が、あっという間に過ぎた。
あちこちの路地を歩いて、ドアを叩いて、名刺を渡した。
サンプルは、最初の一種類から二種類に増やした。
稲宮米店のオリジナルブレンド米も、ラインナップに加えた。
それでも。
「ありがとうございます、また考えておきます」
「うちはちょっと……」
「今は必要ないかな」
成果には、繋がらなかった。
ホームページへのアクセスは、順調に伸びていた。
キリが毎日データを見せてくれる。
数字は、確かに動いている。
でも。
(数字と、売上は違う)
それが分かっているから、よけいに、どこにもぶつけられない。
その日の夕方。
結衣は、台所に立っていた。
鍋の中で、野菜がゆっくりと煮える。
湯気が上がる。
いい匂いがする。
それでも。
「……はぁ」
自然と、ため息が漏れた。
手を動かしながら、今日回ったルートを思い返す。
五件。
そのうち、話を聞いてくれたのは二件。
サンプルを受け取ってくれたのは、一件。
それで全部だ。
(二週間で、まだ一件も)
分かっている。
すぐには結果が出ないことは、最初から分かっていた。
でも。
心が折れそうになるのを、どうしても止められない。
火を弱める。
しばらく煮込んでいい時間になった。
ふと、リビングを見る。
そこには、ノクスが一人でいた。
窓の外を見ているのか、何かを考えているのか——どこかぼうっとした様子で、珍しい。
(……そういえば)
契約更新してから、二人きりになるのは初めてかもしれない。
その記憶と一緒に、あの時のノクスの視線も蘇ってきて——
(っ、忘れる忘れる)
頭を振って、エプロンで手を拭く。
気のせいだ。
絶対に、気のせいだ。
気を取り直して、リビングへ向かう。
「ノクス」
「……」
返事がない。
「ノクス」
「……あ、ああ」
ようやく顔を上げる。
どこか、焦点が定まっていない。
(やっぱり、なんか変だ)
でも、今は自分の気持ちの方が先だった。
「営業って、中々難しいね」
軽く笑いかける。
「二週間やって、まだ一件も取れてないよ」
「……そうか」
ノクスが、結衣を見る。
「あ、でもサンプルはだいぶ受け取ってもらえるようになって——」
「結衣」
遮るように、静かに呼ばれる。
「ん?」
ノクスは、少しの間黙っていた。
口を開きかけて、また閉じる。
何かを、言おうとしているのに、言葉が出てこない様子だった。
「……最初の頃に比べれば」
やがて、低く続ける。
「お前は随分、成長した」
「どうしたの急に」
結衣が、思わず笑う。
「帳簿も、もう自分一人でつけられるだろう」
「そう、だね」
「一人で抱え込むことも、だいぶ減った」
「みんながいてくれるからね」
「自ら、次の一手を探そうと行動も起こすようになった」
「……?」
結衣には、ノクスが何を言いたいのか分からない。
急に褒められているような、でも何か別のことを言おうとしているような。
「私は……」
ノクスが、わずかに視線を落とす。
(私の役目は、終わったのでは)
その言葉が、口から出るより先に。
ピリリリ。
結衣のスマホが、鳴った。
「あ、ごめん」
ポケットから取り出す。
画面には、見知らぬ番号。
(……誰だろう)
恐る恐る、出る。
「はい、稲宮米店です」
「あの……この前の木曜日に、サンプルを頂いた者で……」
「……!」
息を、飲む。
「はい」
声が、わずかに震えた。
「はい……本当ですか?」
一拍。
「では、今度の土曜日にお持ちします!ありがとうございます!」
電話を切る。
結衣は、しばらく下を向いたままだった。
肩が、小さく震えている。
「結衣?」
ノクスが、立ち上がりかける。
大丈夫か、と続けようとした言葉は——
「ノクス!」
——右手を、強く掴まれた。
振り仰いだ先に、結衣の顔がある。
目が、潤んでいる。
でも、笑っている。
満面の笑みで。
「買ってくれるって!」
「……」
「やったよ!初めて取れた!」
掴まれたままの手に、結衣の体温が伝わってくる。
その熱さに、どうしても意識が引っ張られる。
「あ、あぁ……」
「すごくない!?二週間で!やっと!」
「……良か——」
「これも、全部ノクスのおかげだよ!」
「……? 何を言っている。成果を出したのはお前で——」
「違うよ!」
結衣が、まっすぐに見てくる。
「私一人だったら、ここまで来れなかった。ノクスが初めてうちに来た時から、ずっと色々やってくれたから。新しいお客さん、初めて取れたの」
一拍。
「本当に、ありがとう」
「……」
ノクスは、答えられなかった。
「もちろん、アイルやキリ、エレンにお兄ちゃん、みんながいたからだけどね」
結衣が、また笑う。
(今、私は)
結衣の言葉に、喜んでいる。
それは、分かった。
だが。
「ノクスがいてくれて、本当に良かった」
その一言で。
時が、止まったような気がした。
喜びと——それとは少し違う、もっと深いところに触れるような何かが、胸の中でゆっくりと広がっていく。
それが何なのか。
まだ、言葉にはできない。
できないけれど。
(……これは)
掴まれたままの手を、ノクスは——離す理由を見つけられなかった。
その時だった。
世界に、亀裂が入るのを感じた。
音もなく。
気配もなく。
ただ——何かが、割れた。
「……っ」
ノクスの全身を、見知らぬ術式が駆け抜ける。
浮かび上がる紋様。
床から、壁から、空気の中から。
見たことのない文字列が、光を纏いながら次々と展開していく。
(これは——)
認識するより先に、体が動いた。
「——っ!」
結衣の体を、思い切り押しのける。
「イタタ……な、何?」
床に手をついた結衣が、顔を上げる。
ノクスを中心に広がる術式が、光を強めていく。
部屋の空気が変わる。
重くなる。
まるで、この空間ごと別の何かに引き寄せられるように。
(体が——)
動かない。
足が、地面に縫い付けられたように動かない。
魔力が、根こそぎ引き抜かれていくような感覚。
これだけの術式を、いつの間に、誰が——
「何事だ——」
「……!」
廊下から声が重なる。
アイル、キリ、エレン、豊。
異変を感じた全員が、リビングへと駆け込んできた。
「「「……!!」」」
誰も、言葉が出なかった。
「な、なんだ、これ」
豊が、声を絞り出す。
ノクスは歯を食いしばった。
術式に抗おうとする。
力を込める。
だが——引かれていく感覚が止まらない。
これは強制召喚だ。
自分の世界から、力ずくで引き戻そうとしている。
「ノクス!」
結衣が、立ち上がる。
「来るな!」
これほど苦悶の表情を浮かべたノクスを、今まで誰も見たことがなかった。
結衣の足が、止まる。
心臓の奥に、冷たい何かが広がっていく。
恐怖だと、すぐに分かった。
こんなノクスを見たことがない。
あんなに強いはずの、絶対に揺るがないと思っていた存在が——
術式が、さらに広がる。
光が、強くなる。
部屋全体が、白く染まり始める。
(まずい)
ノクスの思考が、一点に収束する。
このまま巻き込まれれば——結衣が、どうなるか分からない。
「結衣を……っ、守れ!」
その言葉に弾かれたように。
アイルとキリが同時に動いた。
結衣の両腕を掴んで、ノクスから引き離す。
「え、ちょ——」
「離れろ!」
キリの声が、鋭く響く。
「ノクス——!」
結衣の声が、光の中に溶けていく。
次の瞬間。
世界は、白に包まれた。
静寂。
後には、誰もいない空間だけが残った。
床の上に。
ノクスが渡した名刺入れが、一つ落ちていた。
ここまで『令和の米騒動編』を読んでくださり、本当にありがとうございました。
現代パートは、ここで一区切りとなります。
そして次回からは、新シリーズとして“異世界編”がスタートします。
5月18日(月)より、1週間連続投稿予定です。
結衣たちを待ち受ける新たな世界。
そして、突然引き裂かれた彼らがどうなっていくのか——。
ここから先は、これまでとは少し違う物語になります。
少しだけお待たせしてしまいますが、その分しっかり準備してお届けできればと思っています。
続きを楽しみにしていただけたら嬉しいです!




