第94話 数字が動く
(断られたはずだった。それでも、誰かはちゃんと“見て”くれていた)
最初の一件目は、あっさりだった。
「うちはもう、長年お世話になってるところがあるから」
にこやかに、でもはっきりと断られる。
「そうですか。もし何かあれば、ぜひ」
名刺だけ置いて、次へ向かう。
(……まあ、そうだよね)
気を取り直して、二件目。
「農家さんから直接買ってるんだよね、うちは」
「そうなんですか。品種は——」
「ごめんね、今ちょっと忙しくて」
愛想よく、でも会話を切られる。
(……うん、忙しいよね、お昼時だし)
三件目は、少しだけ手応えがあった。
店主が話し好きで、米の話で盛り上がった。
炊き方のコツとか、ブレンドのこととか。
気づけば、三十分近く立ち話をしていた。
「面白い子だねぇ。ちょっと考えておくよ」
「ありがとうございます。ぜひ」
名刺を受け取ってもらえた。
手応えを感じた。
——けれど。
三日経っても、連絡は来なかった。
四件目。五件目。
断られる理由は、どれも真っ当だった。
既存の取引先がある。
農家から直接仕入れている。
今は必要ない。
誰も意地悪ではない。
当たり前のことを、当たり前に言っているだけだ。
それが分かっているから——余計に、どこにもぶつけられない。
「……ただいま」
夕方、店に戻った結衣は、エコバッグを下ろした。
いつもより重く感じた。
中身は、朝と変わらない。
サンプルは、ほとんど減っていない。
「お帰り」
豊が顔を出す。
「どうだった?」
「……うーん」
言葉を探して、見つからなかった。
「まあ、そんな簡単にはいかないよね」
笑おうとして、少しだけぎこちなかった。
「そっか」
豊は、それ以上何も言わなかった。
結衣は、テーブルの前に座る。
名刺入れを、そっとテーブルに置く。
(聞く。想像する。未来を見せる)
頭では、分かっている。
やり方も分かっている。
でも。
(……難しい)
実際にやってみると、全然違う。
相手には相手の事情があって、こちらの都合とは関係なく、もう動いている。
(当然か)
うまくいくなんて、最初から思っていなかった。
でも、こんなに手応えのなさを感じるとは。
「結衣」
低い声。
顔を上げると、キリが立っていた。
ノートパソコンを片手に持っている。
「ちょっといいか」
「……うん」
「見ろ」
差し出された画面に、数字が並んでいる。
「これ……」
「今日のホームページへのアクセスだ」
キリが、淡々と続ける。
「外部からの流入が、昨日と比べて増えている」
「え」
「それだけじゃない」
キリが、画面をスクロールする。
「ここを見ろ」
「……これって」
「名刺のQRコードから来たアクセスだ」
結衣の目が、止まる。
「QRコードから、って……分かるの?」
「ああ」
キリが続ける。
「名刺のQRコードには、専用のタグを仕込んである。どこから来たアクセスかを識別するためのものだ」
「仕込んで……あったの?」
「当然だ。データが取れなければ、効果の検証ができない」
一拍。
「今日、お前が渡した名刺から、実際にホームページを見た人間がいる」
「……」
結衣は、画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「断られた相手も、いるかもしれない」
キリが続ける。
「だが」
「名刺を受け取った誰かが、家に帰ってからQRコードを読み取った」
「気になって、見てくれたってこと……?」
「そういうことだ」
「……」
喉の奥が、わずかに熱くなる。
断られた一件目の店。
話し込んだけど連絡が来なかった店。
笑顔で「考えておく」と言ってくれた店主。
その誰かが。
帰り道か、夕飯の後か——QRコードを読み取って、ホームページを開いた。
「……すごい」
「何がだ」
「数字って、正直だね」
「ああ」
キリが、短く答える。
「人は嘘をつくこともある。だが、数字は動いた事実しか示さない」
一拍。
「お前が動いた分だけ、数字は動く」
「……ありがとう」
小さく、言った。
キリは、わずかに視線を逸らした。
「当然のことを言っただけだ」
「それでも」
結衣が、少しだけ笑う。
「嬉しかった」
「……」
キリは、答えなかった。
ただ、耳の先が、わずかに赤くなっていた。
「よし」
結衣が、立ち上がる。
エコバッグを持ち直す。
「もう少し、やってみる」
「ああ」
「明日も行ってみようかな。ルート変えて」
「それがいい」
「キリ、また数字見てて」
「……分かった」
結衣が、また出かけていく。
その背中を、キリはしばらく見ていた。
少し離れた場所で。
ノクスは、その一部始終を見ていた。
腕を組んだまま。
動かないまま。
(……良いことだ)
頭では、分かっている。
結衣が自分で考えて動いた。
うまくいかなくても、また立ち上がった。
以前の結衣には、なかった姿だ。
(それは、喜ばしいことのはずだ)
なのに。
「もう少し、やってみる」と笑った顔。
「ありがとう」とキリに言った声。
それを見た瞬間に感じたものが——うまく言語化できない。
(……おかしい)
不快ではない。
むしろ、嬉しい。
結衣が前を向いているのは、嬉しい。
だが、同時に。
何かが、胸の奥に引っかかっている。
(なぜだ)
エレンと笑う。
アイルと話す。
キリに礼を言う。
その全部が、嬉しいはずなのに。
なぜか。
(……なぜ、私ではないのだ)
その思考が浮かんだ瞬間。
ノクスは、自分でも驚いた。
(……何を考えている)
合理的ではない。
雇用主と被雇用者の関係で、そのような——
「考え事かな?」
声がした。
エレンだった。
「……何だ」
「さっきから、難しい顔してるね」
「していない」
「してるよ」
にやりと笑う。
「……結衣ちゃんが、他の人に笑いかけると気になる?」
「関係ない」
「そう?」
エレンは、肩をすくめた。
「まあ、いいけど」
そのまま、歩いていく。
「自分の気持ちに、ちゃんと気づけるといいね」
最後だけ、少しだけ真剣な声で言い残して。
ノクスは、その言葉を聞きながら——また、答えが出なかった。




