第93話 名刺を持って
(「私も、営業してみようかな」その一言は、結衣が初めて“待つ側”をやめた瞬間だった)
翌日。
「……これで、一通り設定は終わった」
キリが、モニターを見つめたまま言う。
画面には、完成した広告の管理画面。
「すごい……これで、出るの?」
結衣が、少し身を乗り出す。
「審査を通ればな」
「審査?」
「不適切な内容がないか、媒体側が確認する工程だ。通常、数時間から——」
「ちょ、ちょっと待って」
結衣が、さらに画面に近づく。
「ここ、どういう意味?」
指先が、モニターの一点を指す。
「それは——」
キリが答えようとして。
——ふと、止まる。
(……近い)
視界の端に、結衣の横顔。
距離が、近い。
さっきよりも、明らかに。
(……なぜ近づく)
いや、違う。
結衣は、ただ画面を見ているだけだ。
問題は——
(……なぜ、意識する)
思考が、一瞬遅れる。
「キリ?」
「……っ、あぁ」
慌てて視線を戻す。
「それは、クリック単価の設定だ」
声が、わずかに固い。
「予算内で、どの程度の入札をするかを——」
「へぇ……」
結衣が、さらに顔を寄せる。
「ここってさ——」
「……」
(……集中しろ)
指先に力が入る。
キーボードを叩く音が、少し強くなる。
「えっと……これって、どれくらいで結果出るの?」
「……すぐには出ない」
短く答える。
「審査が通っても、最適化には時間がかかる。数日から——一週間程度だろう」
「そっか……」
少しだけ、残念そうな声。
そのとき。
「まぁまぁ」
エレンが、横から覗き込む。
「慌てても、そういう仕様だったら仕方ないって」
「うん……分かってるけど」
結衣が苦笑する。
「せっかく作ったのに、見られないのはちょっと寂しくて」
「なら」
エレンが軽く肩をすくめる。
「自分で動くのが一番早いよ」
「え?」
「待つだけじゃなくてさ」
にやりと笑う。
「会いに行けばいい」
その一言に。
結衣が、少しだけ考え込む。
「……あ」
小さく、何かに気づいた顔。
「そっか」
顔を上げる。
「私も、営業してみようかな」
「いいじゃん」
エレンが楽しそうに言う。
「向いてると思うよ」
「……そうかな」
「うん」
即答だった。
その様子を、少し離れた場所でノクスが見ている。
腕を組んだまま。
(……営業)
言葉だけは理解できる。
だが。
どこか、思考がまとまらない。
さっきから。
妙に、集中が切れる。
(……何だ、この状態は)
視線が、また結衣に向く。
自然と。
(……いや)
無理やり逸らす。
だが。
また戻る。
「いいと思うよ」
今度は、アイルが口を開いた。
柔らかく微笑みながら。
「だったらさ、名刺作ろうか」
「名刺?」
「うん」
パソコンを軽く叩く。
「せっかくホームページもあるんだし、連絡先とかすぐ渡せる方がいいでしょ?」
「たしかに……!」
結衣の顔が、ぱっと明るくなる。
「お願いしてもいい?」
「もちろん」
アイルが楽しそうに笑う。
「任せて。可愛いの作るから」
「可愛いの!?」
「そこ大事でしょ」
そのやり取りを横目に。
キリは、画面を見つめたまま固まっていた。
(……集中できない)
原因は、分かっている。
だが。
認めたくない。
視線が、わずかに横に逸れる。
結衣が、笑っている。
その瞬間。
——ドクン。
心臓が、大きく跳ねる。
(……分かっていても、か)
小さく、息を吐く。
その様子を。
エレンが、ちらりと見た。
口元が、わずかに緩む。
(あーあ)
心の中で、くすりと笑う。
(完全にこじらせてるな、これは)
その隣では、アイルがほんの少しだけ優しい目でそれを見ていた。
完成した名刺には、稲宮米店と自分の名前、そして連絡先と、お店のホームページにつながるQRコードが書かれている。
結衣はそれを見ながら、ほんの少しだけ違った未来を想像していた。
米屋に戻ると決めて、就活も中途半端になってしまったけれど。
もしそのまま順調に就職していたのなら、きっとこの名刺に書かれた会社の名前は、違ったものだったのだろう。
けれど。
どこか温かな温度を感じるこの一枚の紙は、ここにいなければ見ることも出来なかったものだ。
自分が小さい頃から慣れ親しんだ店の名前を、改めて背負っているんだと思うと、どこか誇らしい気持ちで胸がいっぱいになる。
結衣は名刺を、小さな名刺入れにそっと収めた。
ノクスが実際にスーパーで話す時に使ったものらしい。
渡された時、何も言わずにぽんと置いていったけど——なんとなく、お守りみたいだと思った。
手のひらの中で、それがやけに軽く感じる。
「……よし」
声に出してみると、思ったより緊張した。
「サンプルも持った?」
アイルが、小分けにした米の袋を差し出す。
「うん、ありがとう」
受け取って、エコバッグに入れる。
名刺入れと、サンプル。
それだけなのに、なんだか出陣する気分だった。
「どこ行くの?」
豊が、のんびりと聞く。
「北の通り」
「……あそこか」
豊が、少しだけ意外そうな顔をする。
「商店街じゃないんだな」
「顔見知りのところじゃ、なんか気恥ずかしくて」
結衣は苦笑する。
「それに……配達で通るたびに、気になってたお店があって」
「へぇ」
「小さい定食屋さんとか、お弁当屋さんとか。お米、どこで買ってるのかなって、ずっと思ってたから」
豊は、しばらくぽかんとしていた。
それから、にかっと笑う。
「……お前、ちゃんと考えてたんだな」
「配達中、暇だもん」
照れ隠しに言うと、豊がまた笑った。
「行ってきます」
玄関の扉を開けると、夏の空気が一気に流れ込んできた。
エコバッグを握り直して、結衣は歩き出す。
(聞く。想像する。未来を見せる)
エレンの言葉を、もう一度だけ頭の中で繰り返した。




