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第92話 契約以上の感情


 (——契約は、もう終わっているはずだった。なのに、ノクスは結衣の手を離せなかった)



(ようやく、か)


 店内を見渡したノクスは、自らの設計通りに店が動き始めるのを見て、少しばかり胸を撫で下ろした。


 土台となっている環境が劣悪では、結衣は米屋のことにも集中できない。


 だからこそ、先に環境を整え、次の打ち手を同時進行し、新米が出る時期に合わせた戦略設計を組んだ。


 ……ただ、一つの誤算を除いては。


「結衣ちゃん、これって……?」


「あぁ、これね。これはね……」


 店の中で、勇者エレンに説明をしている結衣は終始笑顔で、すっかり心を許しているようだ。


 特に、この前エレンが体調を崩してからというもの、その距離感はより近づいたように見える。


(結衣も豊も、人を簡単に信用する)


 それは結衣たちの優しさであり、同時に危うい部分でもある。


 最初に感じた敵意はない。


 最近では米屋のことも自ら手伝うようになっているから、喜ばしいことではあるはずだ。


(……だが、どうにも落ち着かない)


 結衣がエレンと声を交わし、笑う度に感じるのは、生きてきた中で感じたことのないような焦燥感。


(人間という種族と密に関わるのは結衣が初めてだ。……だからこんな反応をするのか?)


 けれど、スーパーの組織改革をした時でも、他の人間と関わりはあった。


(いや……これは“人間”というより、結衣本人に対しての反応だ)


 その時。


 不意に、エレンが結衣の頭を撫でた。


 胸の奥のざわめきが、強くなる。


(なんだ、これは)


 ぐつぐつと血が沸騰するような感覚。


 組んだ腕に力が入る。


 頭で考えても、理屈が追いつかない。


「……気に入らん」


 低く、押し殺すように呟かれた声。


 理由は説明できない。


 けれど、確実に不快だった。


 夜の静かな時間。


 アイルもキリも早々に部屋に戻り、リビングに残っているのは、ソファで寝落ちしている豊とノクス。


 そして、エレン。


 結衣は風呂に入っていて、今この場にはいない。


 テレビから流れる軽快なトークが部屋の中に響く中で、たまに豊のいびきが聞こえる。


 画面をぼうっと見るエレンの横顔を見ていると、不意にエレンが口を開いた。


「ねぇ……そんなに睨まれると気になるんだけど」


「睨んでなどいない」


 視線だけが、ノクスの方を向く。


「ふーん。……当てようか? 結衣ちゃん絡みのことなんじゃないの?」


「……」


 ノクスは何も言わない。


 けれど、エレンは全て分かっているかのように、ニヤリと笑みを浮かべる。


「大体さ、ちょっと結衣ちゃんに固執しすぎじゃないの?」


 しつこい男は嫌われるよ?


 そう言って、固まった体をほぐすように腕を伸ばしたエレンが言う。


「雇用契約を結んだ相手に害が及ばないか、見極めているだけだ」


 敵意は感じられない。


 だが、未だ信用するに値するかは判断できない。


「契約……ね」


 エレンが、ゆっくりとノクスの方に向き直る。


「本当に、“契約”だけの話?」


 ノクスは、わずかに眉を寄せた。


 答えようとして——言葉が出なかった。


「……何が言いたい」


「だから」


 エレンが、にやりと笑う。


「契約以上に何かあるようにしか見えないんだけど」


(言っている意味が理解できない)


「お風呂出たよ」


 どういう意味だと問う前に、リビングに入ってきた結衣の声に会話は途切れた。


「ひょっとして、お話中だった? なんか、邪魔しちゃったかな?」


 頭を乾かしながら苦笑いをする結衣に、ノクスは頭を振った。


「いや。大した話はしていない」


 そう言いながら、ノクスの視線の先に、結衣の左手が目に入る。


 だいぶ色の薄くなった契約印。


「そろそろ契約印を更新するか」


「そっか。もう一ヶ月経つね」


 お願いします。


 そう言って、何の疑いもなしに手を差し出す結衣。


 最初は恥ずかしい、とか、他に方法はないのかとぶつぶつ言っていた結衣。


 今では、多少顔を赤くするものの、定期的な契約印の更新を繰り返すことで、大分慣れたらしい。


「慣れたか?」


「まだムズムズするけど、最初よりは、ね」


 契約印を刻むには、魔力を結衣に送り込む必要がある。


 その独特の感覚に、最初の頃は全身に力が入るほど緊張していた。


「もうすっかり、この印にも見慣れちゃったしね」


「そうか」


 そっと印を撫でる結衣に、ノクスは目を細める。


「契約内容は同じでいいな?」


「うん」


 結衣の手を取る。


 そっと顔を近づけると、わずかに結衣の手に力が入った。


 支えるように持ったノクスの手に、結衣の体温が移っていく。


 術式を囁くように紡げば、結衣の左手の甲に新たな契約印が浮かび上がる。


 柔らかな風と共に、石鹸の香りがノクスの鼻をくすぐった。


 あっという間に、契約印は新しいものに更新された。


 けれど……。


(何故だ……いつものように、ただ契約印を更新しただけだ)


 自分の手に重ねられた結衣の手を、すぐに離してしまうのがひどく惜しく感じられる。


 左手を添えたまま、さらに右手で包み込むように結衣の手を取る。


 自分より随分と、小さく、柔らかい。


 それなのに、朝から晩まで、本当によく働くものだとノクスは思う。


 人間の体力など、魔族に比べれば随分と少ないだろうに。


(努力する者は、嫌いではない)


 時折、無茶をしすぎるきらいのある結衣を、放っておけなくなったのはいつからだっただろうか。


 結衣からかけられる感謝の言葉が、こんなにも心地良いと思ったのはいつからだろう。


「の、ノクス? どうかした?」


 すっかり思考の沼に入りかけたノクスに、結衣は戸惑ったように声をかける。


 見上げた先には、困惑したような表情の結衣。


 それはそうだろう。


 契約印の更新はすっかり終わってしまったし、さっきまで色の薄かった印は、はっきりとした色に戻っている。


 けれど、まだこの手を離したくないと思っている自分がいる。


(一体、何故……)


 結衣の手を包み込むように掴むと、一瞬だけ、びくりと結衣の手に力が入る。


「……結衣」


 何を言いたいのか、自分でもよく分からない。


 けれど、懇願するように漏れた言葉は、彼女の名前。


 その時。


「……グゴッ!!」


「「……!!」」


 不意に、ソファで寝ていた豊のいびきが響く。


 その音に弾かれたように、二人の手は離れた。


「わ、私、髪乾かしてくる!」


「……」


 慌てて自分の部屋へと戻った結衣は、ばくばくと音を立てる心臓を押さえた。


(さ、さっきのは一体何だったの……!)


 いつも通りの契約印の更新、のはずだった。


 未だに最初は緊張するけれど、少しの時間じっとしていれば、すぐに終わってしまうだけの時間。


 けれど、今日は何かが違った。


 いつまでも離れない手。


 自分よりしっかりした、大きな手。


 さらに包み込まれるように握られた時には、結衣の頭はパニックだった。


 伏せられた真紅の瞳がこちらを見上げて、妙に熱を帯びた声で名前を呼ばれる。


「……結衣」


 ただ名前を呼ばれただけなのに。


 いつもと違う雰囲気と、見るものを魅了するような真紅の瞳に射抜かれて、呼吸することも忘れていた。


 ずるずると、壁に寄りかかったまま座り込んだ結衣は、耳まで真っ赤になった顔を隠すようにタオルを被った。


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